新・帰ってきた日本

SCOT ブログ

April,22,2010

4月22日 移り変わり

 四月も下旬になると、雪解けも加速し、露出する地肌も拡がってくる。夜半に目覚めると、川水の流れる音が一日一日強くなっていくのを感じる。その音にいったん耳を傾けてしまうと、目がさえて眠れなくなる。うるさいと思うからではない。季節が変わっていくときの自然の勢いが、身体にとりついてくるのである。雪が地面のすべてを覆っていた時は、川水の音も自動車の走る音すらも雪に吸引され、無音の自然になる。静かに横たわっていれば、自分の身体の中の音だけが聞こえている気分になる。自分を取り囲む生な日常は自ずと遠ざかり、身体は空気に洗浄されている感じ。
 利賀芸術公園の敷地内を散歩して見ると、今年は殆どの木の幹や枝が激しく裂かれ折れている。全体量としてはそれほどではないと思うのだが、例年に比べ、雪質が湿っていて重かったことと、集中的に降った雪の量が多かったことを窺わせる。今年は植樹の仕事で忙しいかもしれない。公園内の土はそれほど肥沃ではなく、空梅雨だったりすることもあるから、水まきに苦労するかもしれない。
 雪解けとともに動物たちも活発に行動する。私の池のニジマスやイワナも鷺や貂や狐に食べられはじめた。自然の移り変わりとともに、動物たちの食欲も旺盛になる。そろそろ蛇も脱皮して現れてくるころである。
 明日は台湾国立劇場で演出する音楽劇の出演俳優とダンサーのオーディションに出かける。しばらく利賀村を留守にすることになるので、冬の間に心を慰めてくれた魚たちの安全のために、池の水面や周囲に針金を張り巡らし、動物たちが近寄れないようにした。たまにしかすることのない珍しい身体の使い方だったから、楽しかったが疲れた。
 利賀村では5月に静岡とイスタンブールで公演する「エレクトラ」の稽古が始まっている。このSCOTの「エレクトラ」は日韓の俳優たちによって演じられる。韓国語の鋭く強い音に触れるのも久しぶりである。一昨日から稽古に参加した韓国の主演女優に、細かい動きの指示をしておいたが、帰村するまでにどこまで身体化され深まっているか。

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April,15,2010

4月15日 予感

 久しぶりに上海に行った。万国博覧会の開催直前ということもあってか、活気に満ち溢れている。高層ビル群がライトアップされ、中空に林立していて異様な迫力である。その殆どは立方体と三角形のデザインだから、ニューヨークや東京をはるかに凌いで、未来の都市空間のただ中にいるような印象を与える。アメリカや日本がGDPを2倍にするのには、40年前後を必要とした時期がある。それを中国は一人当たりのGDPを1978年からの9年間で倍増し、さらに96年までに再び倍にした威力であろうか。
 上海での演技指導の最終日、私への慰労の心遣いか、国立上海戯劇学院の教授が蘇州を案内してくれた。こちらは近代化された観光地になりつつあるとはいえ、水の都としての昔日の面影を、まだ随所に残していると思え、ホッとするところがある。昭和15年<1940年>にヒットした西條八十作詞の「蘇州夜曲」を思い出す。「君がみ胸に、抱かれて聞くは、夢の船歌、恋の唄、水の蘇州の、花散る春を、惜しむか、柳がすすり泣く」である。
 私にはここまでの妄想をかき立てられる情趣はなかったが、運河沿いに立ち並んでいる民家の白壁、川面に映る枝垂れ柳、石で作られた太鼓橋、これらの取り合わせが、昔の日本人にエキゾチックな官能性を想わせたとしても不思議はないと納得はした。私もいまだ、川で髪や衣服を洗っている若い女性の姿を目にして驚いた。中国はまだ多様である。
 谷崎潤一郎も大正7年<1918年>に蘇州に遊び書いている。
「蘇州の市街には運河が縦横に貫通して橋の数が非常に多い。それらの橋は殆ど悉く石を以て造られ、横から見ると美しいアーチの形を成して町の家並みよりも高々と虹のやうに水の上に懸って居る。全く東洋のヴェニスであると私は思った。」
 北京や上海を訪れて見れば、中国はもはやまぎれもなく経済大国である。かつては、アジアは一つだとか、大東亜共栄圏だとかいうスローガンのもとに、日本からの帝国主義的な侵略を受けた国が、いまやグローバル経済の高波に乗り、見事な国家的な成長をしている。今年1月から3月のGDP、いわゆる国内総生産は、昨年の同期比11.9%の伸び率だそうである。見方によれば感動ものである。むろんこの驚異的な経済発展と世界的な影響力の裏には、非人道的な社会構造が在るとはよく言われることだが、それにしてもこれから、この国は何を言いだし、どう行動するのか興味は尽きない。かつての日本のように、欧米のアジア植民地化に抗すると称してアジア主義などというものを唱え、実際はアジア諸国を侵略していったような轍を踏んでは欲しくないものである。
 いずれにしろ、中国国家の在り方は、劣化しつつある日本の行く末を確実に左右するだろうと感じる。

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April,01,2010

4月1日 大袈裟

 SCOTウインター・シーズンの公演が無事に終わってホッとしている。両日とも雪が散らついて心配だったが、大勢の人々が見に来てくれてありがたかった。世界は日本だけではない、日本は東京だけではない、この利賀村で世界を生きる、などと大きな口をたたいた手前、見てくれる人の多少にかかわらず、何がなんでもやらねばならぬイキがった心境にいるのだが、観客あっての啖呵だとあらためて感じる。
 今年は私の演出作品だけではなく、昔も現在も私の舞台に出演してもらっている音楽家、高田みどり、漆原朝子の二人に演奏会を企画してもらった。二人は打楽器とヴァイオリンの奏者だが、打楽器とヴァイオリンだけの演奏曲など聴いたことがないので、好奇心もあって頼んだのである。さすがに知的で意欲的な人たちで、少し苦労をされたようだが、いろいろな工夫をこらして楽しませてくれた。
 新利賀山房の舞台と客席は近い。演奏するときの呼吸や身体の動きの細部までもが音と一緒になって伝わってくる。音は身体であるという生演奏の醍醐味、楽器から音が出るのではなく、身体から出た音がこちらの身体に触れてくる。巧まれた音が橋がかりになり、他者との共存を確認できる空間が出現する、これはすぐれた音楽演奏の不思議な力である。
 演劇の空間は言葉の共有によってその多くは成立する。言葉によって、人間は集団の内に共存するものであり、そこにルールが存在せざるをえないことが確認される。人間は一人だけの存在ではない、この事実を無視すると、人間は狂人か犯罪者として隔離される、演劇はこの事例を言葉によって示し続けてきた。しかし最近の日本では、言葉は集団の持続を確信させるための励ましになるのではなく、むしろその崩壊を予感させるように存在していると感じさせられることが多い。
 日本の国土のバランスはあらゆる面で崩れている。その認識からか、最近の政治の世界では地域という言葉がしきりと飛び交っている。たとえば、内閣総理大臣を議長として閣僚や有識者を構成員とした地域主権戦略会議が組織されたり、現行の過疎法を改正した、過疎地域自立促進特別措置法などというものが成立したりしている。地域主権とか自立促進とか名前だけは仰々しく格好はよいが、かえってその中身を疑いたくなる言葉の見栄、つまりは下手な役者の誇張演技のような印象もする。これらの言葉が、実際に現場を生きている人たちの身体に接触できるものになるとはとても思えない。
 SCOTの拠点がある利賀村は、過疎市町村に該当する南砺市にある。平成の大合併で南砺市になったが、この利賀地域の人口減はくい止められていない。のみならず、利賀村は65歳以上の住民が50%を越す限界集落で、存続の危ぶまれる地域でもある。
 日本の過疎市町村は、人口では日本の全人口の10%にも満たないが、面積的には国土の50%強を占めると言われる。私はこの広い地域の将来が日本の命運をも決すると考えているが、今度の過疎新法では、対象事業範囲を文化的なソフト面にまで広げたり、事業費の70%を交付税措置するような目配りがされている。しかし財政支援だけで、これらの地域が自立し活性化しないのは、現にそこに生きている人たちが口には出さないまでもよく知っているはずである。
 大袈裟な言葉と中央政府の財源のバラマキは、現在の日本の政治風土では、相も変わらぬ目先の実利に汲々とする人心を煽るだけのことではないのか。50年先、100年先を見据えた生き方の価値観、その生き方を支える精神的な目標、それらを新たに生みだすための政策と一体となった予算の裏付けこそが必要である。それでなければ、日本人の心と国土の荒廃には歯止めはかからない。

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