新・帰ってきた日本

SCOT ブログ

March,30,2011

3月30日 ゲリラ戦

 4月も間近だというのに、明け方の気温は、連日の零下である。池の表面は今朝も凍っている。被災地からの報道には、通称ダルマと呼んでいる灯油を燃やす暖房器具が映し出されていた。私はこれを30年来も愛用している。火力が強く、寒いときには欠かせない。しかも移動性が高い。しかし、被災地のそれには火がついていない。水道、電気、ガス、ガソリン、それに灯油までもと思うと、その苦難はいかばかりか。残されているのは殆ど動物性エネルギーだけ。
 私が東京を離れ、利賀村へ来たのは1976年、日本が経済的な繁栄を謳歌する直前である。また、日本社会の一極集中の始まりの時期でもある。その頃から現在までに、東京の人口は100万人以上も増えている。秩序形成のために非動物性エネルギーを大量に使用せざるをえない都市社会の突出である。
 当時の総理大臣は三木武夫、ロッキード事件で田中角栄前首相が逮捕され、世の中は騒然としていた。演劇界の長老から、日本を揺るがす大事件が起きているのに、山に籠もって演劇活動に専心したいなどという若者が輩出したのは嘆かわしい、と書かれたのを思い出す。別の長老からは、地方に城を築き、籠もって戦おうなどとはずるい、とも言われた。これらの人たちは西洋生まれの政治思想や芸術観に共鳴する演劇人である。昭和時代の一時期、日本の現代演劇の主流を形成した、新劇界の人たちということになろうか。西洋の演劇を日本にも根付かせたいと努力した人たちである。私もその恩恵にあずかったことは確かで、その成果を一概に否定するものではないが、しかし、この言われ方は気に入らなかった。
 あなたたちとは戦い方がちがう。籠城とは片腹痛い。西洋からの借り物を使って、日本社会の後進性を正そうなどとは卑怯千万、その戦い方は無効だ、と開き直ったのを覚えている。西洋から借りたものが、良いか悪いか検討するのが必要なのだ、一度は借りた以上、丁寧に扱わねばなるまいが、不良品だと思ったら熨斗(のし)をつけて返すべきだ、これが私の当時の言い分で、いささか生意気であった。
 果たして当時の日本に、お返しとして進物に価するものがあったかどうかは、私自身も疑わしいとは思っていたのだが、そんなことはどうでもよい、敵は足元にこそ居るぞ、そんな気分になった。素手でもよい、ともかく独力で精神と身体を鍛え、それを武器としてででも戦う以外にはない、その前提に立ち返って何ができるか考える、私の利賀村行きはこれ以上でも以下でもなく、別の言い方をすれば、動物性エネルギーの価値への再検証を試みようとしたものである。演劇の基礎は、俳優の演技を軸にした動物性エネルギーへの信頼にある。
 だから、これは戦いの放棄でも籠城でもない、ゲリラ戦の戦略・戦術の立て直しというのが私の正直な実感に近く、そのために東京を離れるので、むしろ、非動物性エネルギー依存社会のシンボルである東京の否定面と戦うための再武装だと考えていたからの反撥であった。世界は日本だけではない、日本は東京だけではない、この利賀村で世界に出会う、これが劇団の当時のキャッチフレーズ、ややハッタリの趣もあるが、この意気込みで35年間も利賀村に拠点を構え続けられたのは良かったと思える。
 日本にはまた、大災害があるだろう。それまでに政治も行政も精神文化も、新しい展望のもとに今よりも力強く立ち直っているのかどうか。東京から発信される混乱した情報の乱舞に接していると、暗澹とするばかりだが、その成り行きは見てみたい気がする。

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March,18,2011

3月18日 大佐の命運

 カダフィ大佐のようだったそうですね。ツイッターに出てました、劇団員が言う。誰だ、そんな馬鹿なことを言うのは。コピーを見せられたら確かに書いてある。車に座って傘を差し、演説しているカダフィ大佐を見たら、恥ずかしくて笑えたそうな。そして私の昔の舞台を思い出したのだそうな。そういえば昔は役者によく傘を持たせた。
 第一回の世界演劇祭「利賀フェスティバル」に参加してくれた寺山修司の劇団「天井棧敷」の関係者らしい。文の終わりの方にはこともあろうに、私は利賀村で鈴木忠志の独裁者ぶりを目の当たりにしたとある。懐かしい、私も笑える。30年も前のことである。同じ頃、小説家の島田雅彦も利賀村での私のことを、コッポラ監督の映画「地獄の黙示録」のカーツ大佐のような男だとか何かに書いていた。この時も苦笑したが、なんだかカダフィ大佐やカーツ大佐に申し訳ない感じである。あんなに役者っぽく、劇的に生きているわけではない。最近は<マルクナッタ>と言われていることを、この人たちに知らせてやりたい!
 利賀村の地の霊が誘う妄想力もすごい。しかしなぜ、この男たちは二人とも大佐なのか、なんだか私は気に入らない。元帥や大将ならいざしらず、鈴木大佐ではイヤだ。この漢字が四つも並ぶとサマにならない。まるで補給係のようだ。
 ところで日本の首相、一部の週刊誌ではやはり、独裁者などとも揶揄されているカン大佐はどうだろう。攻撃力と破壊力に特性を発揮した、民兵出身の大佐である。王政を倒したカダフィ大佐と同じで、自民党王国を打倒した軍団の指導者の一人である。しかし、攻撃や破壊を得意とする人は、概して守勢の局面に弱い。責任は追及できても、責任を背負い切る訓練と能力に欠ける傾向がある。
 今の日本はあらゆる局面、政治、経済、外交などで国際社会から攻撃をかけられ、守勢を迫られている。おまけに、自然にまで激しく攻めたてられている。日本は縮むのか沈没するのか。敵の攻撃をかわしながら、自軍の損害を最小限にして一度は撤退し、再び態勢を立て直し反撃に出る、これが見事に出来れば名将軍である。
 最近のカダフィ大佐は、一時期の守勢を撥ね返しつつあるとの報道もある。しかしいずれは、撤退か敗走の運命は免れない趨勢ではあるだろう。我らのカン大佐とその軍団の命運も定かではないが、ともかく今の局面では大佐とその軍団に、敵の攻撃を上手にかわし、再び反撃に移るための態勢立て直しの作戦を、いち早く立案・実行してくれることを願うしかない。一刻も早く、東北の前線で悲惨な戦いをしている同胞に、申し訳が立つような作戦行動に出てもらいたいものである。国際社会もその力量を、固唾を呑むように注視しているだろう。
 さて、私の劇団は現在どのような局面にあるのか。勝利か敗北による撤退か、それとも全滅か、ツイッターの一文を検索し、わざわざプリントアウトまでして届けてくれた劇団員に、その情勢分析を聞いてみよう。

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March,10,2011

3月10日 演劇人会議

 3月上旬だというのに、利賀村はまだ雪が降り続く。さすがに、雪質は乾いた軽いものになってきたし、降り方も断続的ではあるが、地上にはまだ2メートルほどの雪がある。これが溶けて無くなり、地表が完全にあらわになるまでには、5月迄かかるかもしれない。
 今年は我が家の一階の屋根=下屋が壊れた。二階の屋根に積もった雪が落下するとき、一階の屋根に当たり、梁が折れたのである。劇団の宿舎の一つは、一階の屋根がすべて地上に落下し、雪は室内にまで降り込んでいた。30年間で初めてのことである。全国各地で雪による死者が多数あったと聞くが、この現状を目の当たりにするとうなずける。
 明日は演劇人会議の総会のために東京に行く。いよいよ劇作家平田オリザへの理事長交代である。演劇人会議は2000年の3月に設立されたから、10年間は理事長を務めたことになる。文部科学省と総務省認可の財団法人だが、地域で活躍する舞台関係者、演劇人、学者、行政官などのネットワークを構築し、舞台芸術活動に携わる人たちの交流を促進したり、日本社会での舞台芸術の課題を明らかにしようと設立したものである。この10年で時代は大きく変わった。日本の将来は、若く有能な人材が登場し、どこまで頑張れるかにかかっている。
 設立当時は、全国規模の活動をする財団の主たる事務所を、過疎地の利賀村に置くことを不思議に思う人たちは多かった。今や逆に、その意義はかなり浸透したと思うが、民主党政権になってからの事業仕分けには、仕分け対象の候補に選ばれ、ヒアリングの時に民主党議員から文化庁の担当者に、鈴木理事長はなぜ利賀村に財団の本部を置いたのか、という質問がなされたと聞く。どんな疑念を持ったのか、事業仕分けという政治ショウの候補対象になったのに驚いたのを思い出す。天下りの役員もなく役員報酬もない財団、基本財産の大半を、利賀村民や役員自らの個人出資で設立した民間財団を、理化学研究所や宝くじ協会、あるいは芸術文化振興基金などと同列に扱われたことに唖然とした。それに財団の事業規模は、2億円を越したこともない。だからこれは、日本の将来にとっての大切なモデル事業として支援宣伝してくれるためかと、一瞬は思ったほどである。それが全く逆で、事業仕分けのアラッポイ選定作業に呆れた。
 私がSCOTの本拠地である利賀村に設立した公益法人は、演劇人会議が初めてではない。1982年、国際舞台芸術研究所を富山県認可の財団として設立している。これは劇団の芸術活動だけではなく、利賀フェスティバルのような公益性を備えた国際的な文化イベントを実行するために必要な組織として設立した。何だかんだといっても、SCOTは芸術集団ではあるが、営利団体としての一面もあることに変わりはないからである。理事には西武百貨店会長の堤清二、岩波書店社長の緑川亨、草月流家元の勅使河原宏、哲学者の中村雄二郎、建築家の磯崎新などの諸氏が就任してくれた。東京で活動していた頃から、物心両面で応援してくれた人たちである。この財団は、1999年の利賀フェスティバルの終了後、演劇人会議の設立とともに解散した。
 両財団をあわせると、およそ30年にわたっての理事長職であったが、本当に多くの人たちの好意に支えられてきたと、あらためて感じる。 
 

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