新・帰ってきた日本

SCOT ブログ

June,30,2011

6月30日 顧問の喜び

 SCOTサマー・シーズンの準備で忙しい。油圧式ショベルカー、いわゆるユンボに乗り続けて6日も経つ。車椅子用のスロープ作り、公園内の岩石の配置換え、雪の重みで折れてしまったり、枯れた樹木の撤去、石やコンクリートで作られたテーブルの設置、長く伸びた雑草を根こそぎ引き抜いたり押し潰したり、朝から晩までショベルカーで作業をしている。さすがに腰にこたえてきた。間断なく続いている振動のためか、朝起きるとギックリ腰ギミ、ベッドから降りるときが辛い。ブヨにも噛まれっぱなし、ふくら脛が痒くてたまらない。それでも楽しくてやめられないのは、完全にハマッタのかも。
 今夏は私の作品を5本も上演する。7月1日から稽古が始まったら好きなショベルカーに乗る暇がとれない。それで焦りも出てくるらしい。朝起きるとすぐ乗ってしまう。今夏は外国の俳優たちが何人も主役級の役で参加しているので、SCOTの役者たちだけのときのように、オイ、ジブンタチデ、テキトウニヤッテオケ!と稽古場を抜け出し、コッソリトやるわけにもいかないのである。律儀な小心さが顔を出す。少し無理をしてでも今のうちなのである。
 東京の演劇界は大震災の煽りをうけて元気がありません、とかなんとか東京の演劇関係者たちがよく口にするので、ヨシ、ソレデハ!とSCOTの代表作の一挙上演だと意気がってみたわけだが、この点に関しては誤算であった。それにしても、3台もショベルカーを動員して、劇団員が総出で劇場の整備をしているのだが、稽古始めに間に合うかどうかといった具合。室内劇場が3つ、野外劇場が3つ、掃除や消毒にも手がかかるのである。
 スエズ運河もパナマ運河も土建業者、土木作業の労働者の努力によって作り出された。そのお蔭で世界中のどれだけの人たちが、便利をしたか計り知れない。私たちの仕事は地球の形を変えることである。私たちは世界中の人たちから感謝される地球の芸術家なのである。故田中角栄首相の言だそうである。どうやら私も、そんな心境になってショベルカーに乗っているらしい。
 列島改造論やロッキード事件で名を馳せた田中角栄が、若い頃に現場の労働者に演説した。どこまで本当か定かではないが、田中角栄なら言いそうに思えてくるから不思議である。なるほどこれは、政治家だと納得させるところがある。苦笑するにしろ哄笑するにしろ、ともかく話がデカイ、発想がキバツ、さすが親分政治家である。
 ナポレオンはエジプトに遠征した折、ピラミッドの前で兵士に演説をした。エジプト数千年の歴史が諸君の戦い振りを見ている。この演説の故に、あのフランス人が戦争に勝ったという。それに匹敵する名文句である。私も田中角栄の演説を思い出すと、なんとなく元気が出て、何時間でもショベルカーに乗って、我らは地球の芸術家、という心持ちになってしまうらしいのである。
 実際のところ、地形を変えるというのは、なかなか小気味よい。地面の形姿が一挙に変わるのである。何日もしつこく、演技の変更の要望を出したら、役者の姿形がよくなってきて嬉しい、なんてものではないのである。もちろん、一緒に仕事をしている仲間である。演技が上達してくれることほど嬉しいこともないが、ただ残念ながらそれは、私の意志だけで変わったとは言い難い。その点、地形は違う。こちらの意志次第でどうにでもなる。ただ、ショベルカーを操作するこちら側の技術力の問題はあり、悔しい思いをすることが多いことも認めるとしても。
 人間を変える芸術家から、地球を変える芸術家への人生展開、チョット晩年になり過ぎたが、タダイマ、シアワセ、といった感じ。これは富山県に感謝するところである。数年前に利賀芸術公園の顧問に委嘱された時に、顧問の仕事の中に、石の配置、樹木の植え替え、小道の付け替えなどの項目を明記してくれたのである。芸術家でこんな顧問の仕事を委嘱されるのも前代未聞だろうが、大手を振ってショベルカーで活躍できるのも、私の第二の人生の喜びを、ちゃんと見抜き保証してくれた富山県のお蔭である。
 

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June,23,2011

6月23日 海ゆかば

 今はどうか知らないが、若い頃に通っていたパチンコ店は、開店と同時に必ず「軍艦マーチ」を流した。この曲の軽快なリズムとともに、開店を待って並んでいた客たちは、一斉に店内になだれ込む。瞬時の間を置いて、あの独特の騒音の中の沈黙の熱中。客観的にその光景を想い浮かべるとかなりバカバカシク、オカシイ。その点では、こんな曲を開店時に使うことを思いついたパチンコ店の経営者には、演出家としての拍手を惜しまない。
 第二次大戦中、天皇直属の軍隊の司令本部、大本営が陸海軍の勝利を誇らしげに国民に告げる時に、よく聞かされた曲である。現在でも海上自衛隊の儀礼曲らしいが、終戦後には右翼の街宣車が走りながら大音響で流すのをよく見かけた。歌詞はたわいがなく、守るも攻むるも黒鉄<くろがね>の、浮かべる城ぞ頼みなる、云々といったものである。
 これに対して、日本軍玉砕の悲報を伝えたり、特攻隊の出撃の時などに流された曲「海ゆかば」は、信時潔作曲による格調のある旋律であった。歌詞もまたスゴイものである。「海行かば、水漬く屍 山行かば、草むす屍 大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」
 死体が水に浮くことになっても、草が生えるようになっても、私たちは大君の側で死のう、自分のことを顧みないようにしよう、というような意味である。万葉集に収録されている大伴家持の長歌の一節だが、作曲されたのは昭和12年である。敗戦後のしばらくは、日本の悪夢の時代のシンボルの一つとして封印されてしまった。
 信時潔自身は平和主義者だったとも言われているが、この歌曲自体は、「君が代」に次ぐ「準国歌」としての役割を軍国主義時代に果たしたとみなされたためである。しかし、私の戦争の記憶の中では、とび抜けて忘れられない旋律である。戦争が子供心にもたらした、唯一のすばらしい記憶と言っていいかもしれない。むろん当時の私には歌詞の意味は分からなかった。後に理解した時には、茫然たる想いにさせられたことは覚えている。私はこの曲を今夏のSCOTの公演演目の一つ、「世界の果てからこんにちは」の舞台で使っている。
 この舞台は、1991年に利賀フェスティバルの10周年を記念して創ったものである。日本的心性がよく表現されていると思われる言語的な素材を、一人の男の心象風景として次々と展開するコラージュ風の作品である。池をバックにした野外劇場での上演なので、色々な場面で花火を使用した。大変な好評で何度か上演したが、「海ゆかば」は何回目かの時に新しく挿入したのである。曲とともに、特攻隊の自爆する光景を連想させるような花火の種類を選び、打ち上げた。
 最終場面はシェイクスピアの「マクベス」のセリフを少し変更し、主人公に語らせている。マクベス夫人が死んだという報告を聴く場面のそれである。マクベス夫人のことを「ニッポン」という言葉に置き換えた。
  男 何を騒いでいた。
  女 ニッポンが、陛下、お亡くなりに。
  男 ニッポンもいつかは死なねばならなかった。
    このような知らせを一度は聞くだろうと思っていた。
    明日、また明日、また明日と、時は小きざみな足どりで一日一日を歩み、
    ついには歴史の最後の一瞬にたどりつく、
    昨日という日はすべて愚かな人間が塵と化す、死への道を照らしてきた。
 日本人がまだ、東日本大震災の惨状を生きている現在、「海ゆかば」も「マクベス」の書き換えたセリフも、かっての舞台とは異なった印象を与えることになるかもしれない。
 小林秀雄は第二次大戦中に「無常といふ事」の中で次のように書いた。「思い出が、僕らを一種の動物である事から救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思ひ出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思ひ出す事が出来ないからではあるまいか。上手に思ひ出す事は非常に難しい」。
 確かに演劇はギリシャ以来、思い出の歴史である。過去とそれを思い出す、その思い出し方の方法を集団で共有しようとする努力の産物であった。小林秀雄的に言えば、死んでからはっきりした人間の形を獲得するのではなく、生きている間に、少しでも人間の顔を持ちたいという願望に支えられた文化活動だった。
 今回の「世界の果てからこんにちは」の舞台が、演劇のそういう努力の歴史に連なっていればと思っている。

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June,20,2011

6月20日 不思議

 ショックを受けて人間は成長するんだよ。物の見方や世界に対する考え方が変わるからね。私は即座に答えた。人間がショックを与えられるのはあまり良いことではない、というニュアンスを含んだ質問を、一人の学生がしたからである。
 静岡県舞台芸術センターでの「椿姫=茶花女」の公演が終わり、鳥取へ行った。鳥取大学の友人に依頼された講演のためである。その最後の締めくくりに東日本大震災直後しばらくのことに触れ、マスコミの報道に死体の写真や映像が出てこない、見せられたのは建物の瓦礫が主である、建物が壊されたから自然が恐ろしいのではなく、人間を通常ではない死に方に追い込むから恐ろしいのだ、その実態をなぜ報道しなかったのか、こんな不思議なことはない、これは日本国民にとっての大失態ではないかと話した。その講演会の後の懇談の席でのことである。
 私は子供の頃、海の近くで育っている。海の波がどれほど激しく変化するものであり、恐ろしいかは知っている。実際に浜辺に打ち上げられた死体も目撃したこともある。しかし大多数の日本人は、恐らく海水浴に行ったときぐらいにしか海に接することはないから、海というものの多面的な顔を身近に感じたことはないだろう。ましてや、水ぶくれや手足の切断されたような死体を見ることは滅多にない。
 今回の大震災では、浜辺に多数の死体がさまざまな姿で並んだという。わたしは一瞬でもいいからその光景を見たかったと思っていた。自国の報道で接した外国の友人が、来日した折に、その光景を話すのを聞く時ほど、当事国の国民としての情けなさを味わったこともないのである。
 こんなに見事に、死体の映像が報道されなかったのは、誰が、いつ、どうして決めたのか興味が湧く。私たちは今でも広島や長崎、あるいはアウシュヴィッツの死者の映像は見られるのである。その光景はいつ見てもショック、いやショックなどという言葉は通り越している。しかしそのことによって私は、政治権力や差別感情、あるいは科学技術などというものがどれほど恐ろしいかを、たえず学んでこれたのである。報道には報道なりの考えがあったのであろうが、わたし自身としては残念でならなかった。人間には多様な死に方があり、死んでしまうと人間も瓦礫にすぎない、ということを再確認できなかったからである。
 確かに私も、悲惨な死体には目を背ける。死体だけではない、自動車事故でケガをして、大量の血を流しながら、痛さに道路上をのたうちまわっている若者に出会い、手足がすくんでしまったこともある。瞬間的に現れ出る、自分の臆病さや生理的な弱さに哀しい思いをしたことはあるのである。しかし、そういう時でも、臆病さや弱さを跳ね返し、目の前に起こっていることをしっかりと見届けなければいけないという勇気を手にしたこともある。そのことによって、人間という存在についての見方を、実際に教えられた実感はある。
 震災直後にすぐ現場に駆けつけないで、今頃こんなことを言うのも、死んだ人たちやその関係者に対して申し訳ない気もあるが、現場の光景は今までの経験からではとても想像できないと思え、やはり知りたい、いや、できたら現場に立ち会いたかったと思うのである。いずれかはこの日本で、一般の人たちがそれらの映像を見ることが可能になるのであろうか。最近はその光景を知っておくのは、日本人としての義務のような気もしている。

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