新・帰ってきた日本

SCOT ブログ

September,28,2012

9月28日 憧れの顛末

 近ごろ、昔の思い出がよく蘇える。年をとったせいであろうか。
 何故、そんなに意地の悪いことを言うのか。イイジャナイカ、美人で。女優は美人がイチバン。もちろん、美人でイイ! 俺もキライデハナイ! しかし、あんな言葉をあんな喋り方で口にするのはヘン、若い美人が。あれが婆さんならヘタでも納得する。お前のヨーロッパへの<憧れ>というものは恐ろしい、盲目にされている。
 すると相手はこう言った。<偏見>というものも恐ろしい、殊に女に対する偏見は。私が女性に対する悪意か差別感を持っているかのように言う。それも、美しい女性に裏切られた、私の過去の経験がなせる業ではないかと推量しているらしい。こうなると私もシツコクならざるをえない。当時は日本の現代劇の主流を形成した新劇、そのうちの有名劇団が上演するチェーホフの「三人姉妹」を初めて見てのことである。
 「三人姉妹」は100年以上も前に書かれている。有名な幕切れの三人姉妹の台詞、誰がこんな言葉にしみじみとしたり、励まされてきたのか、舞台に接した限りでは納得がいかなかった。田舎に取り残された、主人公の三人娘は雪が降りそうな空の下、白樺を背景に寄り添い、こんなことを言う。長い台詞なので、末尾だけを書き抜く。
 まず、結婚しながら浮気に失敗した次女が言う。生きていかなければ、生きていかなければねえ。すると独身の末娘がそれを受けて、やがて時が来れば、どうしてこんなことがあるのか、なんのためにこんな苦しみがあるのか、みんなわかるのよ。あたし働くわ、働くわ、と言う。さらに、それを引き継いで同じく独身で頭痛もちの長女が、もう少ししたら、なんのためにわたしたちが生きているのか、なんのために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ。それがわかったら、それがわかったらね。これがこの戯曲の幕切れのクライマックスである。
 私が接した舞台では、この言葉は実にロマンチック、悲しそうな感情を込めた台詞として、女優が観客席に歌うように語っていた。涙を流しているのではと思えるぐらい。その時、何とも知れず私を襲った違和感。シラケタのである。否、気味が悪いと言った方が良いか。チェーホフの言葉にではない、女優たちの演技にである。これは他人に向かって言うべきではなく、静かにしみじみと自分に言ってほしい。それを観客に向かって正面から堂々と言っている。ハズカシイ!
 感情移入という言葉がある。対象の人物や聞いている言葉に自分の感情を同化し、同じような気分を生きようとする心理的欲求。それを観客に要求しているような演技だったのである。バカラシイ! 美人のダメナ女のこんな言葉に誰が共感するのか、私には不思議だった。むろん、その舞台で三人姉妹を演じた俳優の力量にもよるのかもしれないが、演技の前提になっている演出の感覚は、この三人の存在を批判的にではなく、肯定的かつ同情的に描こうとしているのは明瞭。
 そこで出てきたのが、私の感想。これは女に対する誤解、現実を無視した上空飛翔的妄想ではないのか。これでは、チェーホフはこの現実を見る日本人の甘さに呆れるのではないか、私は友人に言った。しかし友人は強硬、イヤ、この言葉は若い美人女優が言うからウットリと聞いていられる。私は幕切れにブスの三人姉妹がいるなんて見たくない、日本の田舎娘ではないんだから。あの三人姉妹は若い頃はモスクワで育った、上流階級の娘だからね。相手もシツコイ。これこそ差別的偏見、日本の田舎にだって美人はいる。
 まあ、この気持ちは分からない訳ではない。ヨーロッパの後進国とはいえ、文化的には世界の先端を切っていた当時のロシア、劇作家は世界に冠たる文学者チェーホフ。ヨーロッパに憧れ、白人への劣等感に捕らわれている連中である。すれ違うのは仕方がない。
 私はまた言う。この戯曲のこの台詞は、人生に草臥れた女の言葉、美人でも良いけどその面影も消えつつある婆さん、あるいはブスの女優が言うべき言葉だと思う。そうしたら、虚ろに響くか、恨みがましく聞こえて私も納得。歌い上げるように正面きって言うべきものではない。そして私は、この会話を終わりにするつもりで言った。
 私は恋に失敗し、田舎に残らざるをえない三人姉妹だから、不器量な女が良いはずだと言っているわけではない。そんな差別はしていない。こういう言葉を、美人が寄り添って言うと、聞いている人に説得力がある、この感覚が気に入らないんだよ。これはヨーロッパへの憧れが創りだす錯覚、彼の地の女性は美しいだろう、そしてそれを演ずる自分たちも美人だと思っている。こういう人たちが、孤独で悲しい人生を自覚的に生きようとしている観客を励ます。皆で人生を頑張ろうとね。それがあの舞台の背後にある思想だが、それはチェーホフには関係のない、日本人の自分勝手な思い込み。チェーホフをチェーホフたらしめているユーモア、それに則った批判的な視野、精神というものがマルデナイ。
 新劇ファンの友人はそれでも頑固だった。日本人がようやく外国の戯曲を、外国人の身ごなしで楽しく演じられるようになったんだから、大進歩だよ、と楽天的。
 この会話はずいぶんと昔だから、正確ではないかもしれないが、すれ違いの本質はこんなものだったと思う。この違いが私をして、新劇とは違う新しい考え方による演劇を、この日本に出現させなければ、と決心させたキッカケのひとつだった。懐かしい出発点の思い出である。

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September,22,2012

9月22日 日本語の手紙

 重政様、 こんにちは。
 ある特殊の原因で、鈴木先生一行が北京にいらっしゃって「リア王」を演出することに関するすべての手続きは一時停止になりました。詳しい理由は、後ほどワン・リナとリュウ・リナ二人の先生が日本に行って先生に会ってから直接説明します。本当に申し訳ございませんが、どうぞ先生にお伝えください。どうぞ宜しくお願いいたします。
 重政は「リア王」公演の事務連絡を担当している劇団の制作者である。日本政府が9月11日、尖閣諸島を国有化した当日、北京の中央戯劇学院の事務担当者から、重政に届いたネットによる手紙の日本語原文である。翌日から、国有化に抗議する反日デモは急速に中国全土に拡大、北京の日本大使館は連日のデモに包囲される。しばらくして再びネットによる手紙。日本大使館がデモ隊に包囲され、二人の先生のビザが申請できない。
 中国に行くことになっていたのは今月の25日、公演の初日は10月の26日、一カ月の滞在を予定していた。無論、こういう不測の事態がありうることは、日中関係のことだから予想はしていたが、あまりにも素早い反応と二人の先生がワザワザ日本にまで来て、私に説明するという丁寧さに、むしろ驚きつつ実のところホッとし、私も納得。両国の政治紛争は容易に解決する種類のものではなくなった以上、共同事業を遂行できる環境ではない。中国の制作主体は中央戯劇学院、中国唯一の舞台芸術の国立大学である。日本人の演出家の総指揮の元で、多数の中国人が参加して舞台を創る、ましてや実際の舞台上では、私の劇団の日本人、アメリカ人、韓国人が主要な役を演じる。私自身も公演の延期を望むのは当然、落ち着いて稽古など出来るはずもないと思えたのである。
 19日、北京市の公安当局は、一般市民あてに携帯電話のメールで、デモを中止するように指示、デモは即座に収束、日本のテレビには大使館を清掃する映像が流れる。中国独特の光景とでも言うべきか。その日、中国のシアター・オリンピックス国際委員のリュウ・リービンから次のようなネットによる日本語の手紙を受け取る。宛て名は私とSCOTの制作責任者でシアター・オリンピックス国際委員会事務局長の斉藤郁子である。前後の時候の挨拶を割愛して引用する。
 「リア王」の稽古と公演は時局の影響で一時停止することになりましたので、大変残念に存じます。でも、シアター・オリンピックスの件について、こちらは引き続き頑張っています。
 利賀芸術公園を訪問した時、北京市政府と文化部からシアター・オリンピックスを開催することの許可をもらったことをもう二人様に報告しました。と同時に、北京での開催時間を2014年にしようという考えも述べまして、鈴木先生と斉藤様の同意をいただきました。したがって、もっとうまく準備するために、事務局から日本と韓国がシアター・オリンピックスを主催した時の相関資料を提供して頂きたいです。そういう資料を参考にして、早速申請の手続きを完了したいです。鈴木先生と斉藤様のご支持とご協力、心から感謝しております。
 リュウ・リービンが利賀村へ来たのは、中央戯劇学院の先生と学生30人が、私の訓練と「リア王」の稽古をしていた6月の初旬とSCOTサマー・シーズンの後半の9月初頭である。その時、これからの共同作業についていろいろと話し合った。それからあっという間の出来事である。シアター・オリンピックスは世界の芸術家の自発性によって成立してきた国際事業である。たとえ日本と中国の政治的な関係がどうあろうと、自分は頑張るという私と斉藤への心配りでもあろうか、国を越えた友人・同志の存在を改めて嬉しく感じる。 

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September,16,2012

9月16日 マタ、キマス!

 SCOTサマー・シーズンの主要な事業が終わりつつある。7月の末から8月の初頭にかけての演劇人コンクール。これは日本の若い演出家を対象としたもの、8人の演出家の作品が上演された。8月後半の二週間はSCOTの3作品の公演と外国人だけの俳優による作品とシンポジウム。9月初旬は中国、日本、台湾、韓国の劇団によるイヨネスコの「椅子」が上演された。今年から始められた新しい事業、アジア演出家フェスティバルである。現在、アメリカ、イタリア、ドイツ、デンマーク、リトアニア、アルゼンチン、オーストラリア、中国、台湾の演出家や俳優が残り、私の訓練を学んでいるが、それも今日16日に終わる。
 今年の夏は15カ国の人たちの参加で、本当に賑やかだった。公演が終わると夜遅くまで、レストラン・ボルカノでいろいろな国の人たちが議論している。それぞれの国が政治的な理由によるさまざまな軋轢を起こしているが、そういうことを全く感じさせない雰囲気、自国に帰ればなかなか出来ないような話も飛び出したりして、改めて利賀村の不思議な存在の仕方、芸術文化の魔力とでも言うしかないものを、私だけではなく皆が感じたらしい。
 何よりも嬉しかったことは、アジア諸国の若者たち、20代から30代の人達が、交じり合い意気投合している光景を目の当たりにできたこと、そして、それぞれの国の若者たちが利賀村を離れる時、異口同音の挨拶をしてくれたことである。マタ、キマス!
 南米とかEUの一部の国の人達から、この言葉を口にされると、ひとしおその重さが身に染みる。国を出て利賀村に到着するまで、一日以上も飛行機に乗らなければならない。日本に到着しても、成田から羽田、羽田から富山と飛行機を乗り継ぎ、富山空港から利賀村まで、また一時間は車に乗らなければならない。時間だけではなく経済的にも相当な負担である。それを突破して来る情熱、胸にジンとくるところもあるのである。演劇人になろうと決心したばかりの若者は、どこの国でもたいていは貧乏。だからこの言葉は必ずしも実現されるとは限らない。心情と現実はいつも違うことが多い。それを思うとヤハリ、別れの寂しさを感じさせられるところがある。
 今年で利賀村での活動も37年、苦闘の連続でもあったSCOTの歴史が、無駄ではなかった、利賀村の活動を支え続けた精神が、国を越え世代を越えて理解され、確実に受け継がれていきそうだと実感できた。
 いつもそうだがこの後、私の生活環境は急速に変化する。視界から人間の姿はほとんど消え、ただ自然の中に取り残され囲まれる。ススキの穂はいっせいに白く変色し始め、夜の空気は一晩ごとに冷たくなっていく。昼間は透けるような青空と乾燥したさわやかな空気、山奥の僻地の秋である。身体が軽くなって、自然に溶け込んでしまうような、人間世界から離れたという寂しさもあるが、それがフィクションのように身体に懸かってくる感じは格別のもの。
 深夜になるとその感覚はさらに強くなる。人間の言葉は消え去り、せせらぎの音、風が木の葉を擦らす音、動物の鳴き声、自然界の音だけが強く耳に届いてくる。静けさの中での充電の時間の始まりとでも言うべきか。ひと夏の激しい放電の後のこの静けさと寂しさが、これまでの私の創作活動を持続させてくれたのだと想う。 

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