新・帰ってきた日本

SCOT ブログ

December,27,2012

12月27日 再び、第一歩を

 朝早くに東京を発ち、昼過ぎには利賀村に着く。珍しく安心した帰村。羽田から富山行きの飛行機が欠航になる可能性があったので、小松着の便にしたことによる。富山便も雪による到着の遅れはあったようだが、今年は欠便はなかった。
 吉祥寺シアターに置いてあった舞台装置の積み出しのために、羽田を遅れて出発した劇団員のグループも、夕方には無事到着。夕食が賑やかで良かった。雪は例年並だが、気温はいつもより低い。天気予報によれば、日本海側の正月は、例年にないほどの寒波に襲われるとのこと。
 今日は富山県や南砺市の人たちとの忘年会。31日の午後は10月にこの世を去った、斉藤郁子の内輪の偲ぶ会。富山県知事や北日本新聞社の会長など、若いころから長年にわたって親交のあった人たちも出席してくれるとのこと、斉藤も喜ぶだろう。その会の終了後に劇団員は解散、大晦日の劇団の正式行事の終了は、劇団の歴史で初めてである。
 今年ほど我が身の周囲に、人生で初めての出来事が多く起こった年はない。その中でも格別なことはやはり、50年にわたって一心同体のように活動した、斉藤郁子を失ったことである。死の直後は茫然として、あらゆることに身が入らなかった。しかし、いつ迄も感傷的な思いに耽っているのは彼女の志しに反する。彼女の死の直前になされたインタビューの言葉に励まされ、気を取り直し、彼女のSCOTに賭けた人生にしっかりと応えなければと頑張り出したつもりである。
 劇団員の内で、今だ利賀村民として籍を置いているのは、彼女の死後は私一人、彼女の執念の成果ともいうべき、利賀村の素晴らしい劇場群を廃墟にしてはいけないと、決意を新たにしているところである。この施設の将来が不動のものになることを見届けてから、私は世を去ること、どうやらこれが私の人生最後の仕事になってしまったと感じている。
 私もそれなりの年齢になったせいか、後継者は誰になりますかと、よく人に聞かれる。芸術家としての後継者は、日本人でなければ、信頼し推薦できる人たちは容易に存在する。しかし、行政や政治の世界にまで、時としては足を突っ込み成立させてきた、この素晴らしい施設を運営しきれる後継者をと言われると、返答には窮する。この二つは全く異質な側面を持っているからである。
 後者のことは、富山県の政治の在り方と密接な関係を持っている。それだけではなく、日本の政治状況とも。芸術活動のように、個人の考えや欲望で事態が展開する類いのものではない。地元の政治家の方針や国の政策によって、多大な影響を受ける面がある。政治家の政策への理解、その方針を具体化する行政官との信頼関係、それが存在しないと、何事も始まらない。ましてや現在、人口が600人ほどになっている地域、いずれは滅びることも想定される限界集落に在る施設での活動である。こういう場所での芸術活動、これを日本が誇る世界のための公共財産だと胸を張れる演劇人が、はたして現在の日本に存在するかと考えると、心もとない気はするのである。
 しかしいずれにせよ、この利賀村の施設は、しっかりとした政治方針と運営主体のもとに活用されなければ、地域諸共に滅んでしまうのもそう遠いことではない。
 私たちがこの地で活動を始めてから、来年は38年目になる。富山県民はこの利賀村の存在をどのように受け止めているのか、国際的に認知されている芸術活動の拠点をどう評価しているのか、それを前提に政治や行政が明確な方針を打ち出さない限り、この利賀村での実績も、すぐに人々の過去の思い出になってしまうのは確実である。
 これから、日本の社会だけではなく世界は、新しく且つたくましく未来に向けて変貌していくことを要請されている。そうした時代に、この利賀村の活動が多くの人々の心を動かすことのできるためには何が必要か。
 今年は私にとって、本当に一区切りの時代であったし、来年は再び新しい時代を生きるための、第一歩を踏み出さざるをえないのかもしれないと覚悟している。 

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December,23,2012

12月23日 語りの演技

 「シンデレラからサド侯爵夫人へ」の公演のない夜に、渡辺保、金森穣、菅孝行、大澤真幸、水野和夫の5人と対談をした。歌舞伎、現代舞踊、現代演劇、社会状況、経済環境の分析を下敷きに、私の現状認識を語らせてもらった。私は日本の先行きにそれほどの明るい希望を持っている訳ではないが、皆さんの話を聞いても、同じような気持ちにあると思えた。多くの刺激を受け、5人には感謝である。異なった領域の人たちとの知的な対話の必要性を改めて感じる。
 全部で11公演の舞台も、残り2回だけになったが、すべて満席で公演は終了する。この時期に定期的に吉祥寺シアターでの公演をし始めて3年、東京の大新聞のどれにも予告の記事が出たわけではなく、宣伝活動はダイレクトメールと劇団のホームページでのそれだけ。SCOTの公演への観客の定着ぶりを有り難く思う。
 公演終了後の観客とのトークや、ロビーでの感想を聞いたりしての、今年いちばんの印象は、SCOTの俳優の演技が、東京で行われている一般の演劇公演のそれとは違うと感じた観客が多いということである。むろん否定的にではなく、新鮮な印象を伴ってのことである。なにが違うか、大方の推測はつく。舞台上での言葉の話し方と身体の在り方が違うのである。
 現在の日本の現代演劇は、どんな言葉も舞台上では会話として話されるという考え方を前提にしている。いわゆる話し言葉ということだが、その言葉は一人の人間の内面、それも生活世界で生きられ体験される心情に裏打ちされていると見なす。だから舞台上での俳優の演技は、話し方や身体所作を駆使して、見えない人間の心情や心理を、観客が感知できるようにすることになり、その帰結として、俳優の演ずる人物は、限りなく日常生活で出会うような、身近な存在になるのである。というより、理解可能な心情や心理表現を目的とする演技になる。
 SCOTはこの演技観を否定している。それは映画やテレビで見られる、日常生活での人間関係の軋轢を表現するための演技だからである。舞台上の演技は、日常の生活世界を生きる人間関係を表現するためだけのものではない。歴史的に考察しても、演技は人間の頭脳から産出された思考の言葉、その音声化に重要な使命がある。要するに厳密に思考された言葉、人間の想像力や特殊な意識状態や知覚作用を表している言葉、それは殆ど個人的に書かれた言葉として目に触れてくるものだが、その内容を如何に音声化し有効に観客に伝えるか、そのためにどんな身体的な存在の仕方、言葉の語り方(話し方ではない)を舞台上で必要とされるかを追求するのが、演技という貴重な文化的制度だと考えるのである。
 三島由紀夫の「サド侯爵夫人」という戯曲の言葉は、日常生活では音声として触れることのできない言葉、まさしく思考の言葉である。三島個人の頭脳の内で起きた議論としての言葉で、日常の人間関係で交わされる類の会話の言葉ではない。こういう言葉に舞台上で語られる言葉としての説得力を与えるためには、日本人の多くの俳優たちが、暗黙の裡に了解しているものとは異なる演技が要求されるのは当然である。
 モーツァルトやベートーベンは日常生活で哀しんだり怒ったりする感情を、作曲という行為に託したのではない。むろん彼らの曲を聴いて、その音色やリズムに、そのような感情を移入して日常生活の慰みとする人々が存在することを、彼らの音楽は拒みはしない。しかし私にとって、彼らの曲がすばらしいのは、日常生活世界には存在しない音の組み合わせを作り出し、その音のうちに他人の聴覚を引きずり込み、時と場所によって多様な想いに誘う、こうした集中力と情熱を備えた人間が存在するという、不思議な感覚を与えるところにある。
 優れた劇作家も俳優も同じである。日常生活では触れにくい言葉や身体所作への集中力や情熱、それを生きることによって、人間という存在に対する驚きの感覚を絶えず忘れないようにしてくれる。これが私を、演劇にこだわり続けさせた理由のひとつでもある。 

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December,02,2012

12月2日 懐かしの大阪

 いよいよ明日は吉祥寺へ立つ。山奥の過疎地から日本有数の過密地である都会への移動。昨年も触れたが、この取り合わせが、あまりにも不思議で楽しい。
 吉祥寺という街の活気は若く、いろいろな事で刺激してくれる。むろん私にとっては、利賀村は最も刺激の強い場所だが、刺激の質が違っている。ありきたりの言葉で言えば、自然の偶然性と共生することからくる刺激と、極度に人工的な管理の行き届いた場所から与えられるそれである。しかし、ここであえて言っておけば、それぞれの場所それ自体が、楽しいということではなく、二つの場所の極端な違い、この違いが同時に身体に懸かってくる具合が、私に楽しみを与えるのである。
 おそらく、吉祥寺だけで生活していたら、私は退屈するだけだろう。身体感覚が平板になり、自分の身体を形作る感覚、五感のエネルギーを持て余すに決まっている。利賀村にも同じことが言えるかもしれない。SCOTという劇団が、世界各地で活動しながら利賀村に帰って来るから、利賀村の自然の偶然性の豊かさが、私の身体を活性化させる。この環境だけに慣れきってしまえば、精神の闘争心はそれほど湧き起こらないに違いない。
 異質なものどうし、それが出会い共存することに立ち会う。そして、その狭間を生きる感覚、これが私たちの精神活動を活性化させる。この場合、異質なものどうしの距離感はあればあるほど良い。これは私の職業を生きるときに、感覚を鈍くさせないための要諦であり、私の舞台の演出手法の要でもある。
 今日、稽古場から我が家に帰る道すがら、雪に白く染まり始めた山を見ながら、思わず「王将」を口ずさんでいた。明日は東京へ出て行くからは、なにがなんでも勝たねばならぬ、空に灯がつく通天閣に、おれの闘志がまた燃える。思わず口ずさんだ後で笑ってしまった。アマリニモ、モンキリガタ。大阪の将棋指し阪田三吉の心境を歌ったものだが、作詞は西條八十、歌手は村田英雄、これは三番の歌詞である。
 私はこの流行歌を戦前のものだと思っていた。阪田三吉は第二次大戦終了以前、昭和の初期に活躍した棋士だったからだ。被差別部落出身で無学ながら、独学による努力の連続で将棋界のスターに、将棋の指し方のみならず、型にはまらない人生をも生きて、多くの人々を魅了した。だから最近になって、この歌が1961年に作詞作曲され、大ヒットしたと知り、流行歌にはそれなりの蘊蓄があると自負していた私は、その不明を恥じた。なぜこの歌が突然、私の口の端に上ってきたのか、それは通天閣の故であった。
 縞ののれんに、この意地かけて、男まさりが耐えて来た、負けちゃならない浪花の女、通天閣の赤い灯よりも、胸に燃やしたど根性。1965年に美空ひばりが歌った「のれん一代」の歌詞である。私はこの歌を今回、吉祥寺シアターで上演する「シンデレラからサド侯爵夫人へ」の舞台、主人公の一人である娼婦が、他の主人公の健全をよそおう家庭に、殴り込みにいく時の音楽として使っている。ここでも通天閣の灯が、闘志をかき立てているのである。
 通天閣、その夜の灯りが、ある種の精神状態のシンボルのように存在し、広く共有されたのも、昭和という時代の不安定で変化の激しかった世相と、大阪という都市が持つイメージの故であろうか。それが、この紋切り型の心構えの歌詞と、泥臭さを引きずった曲に、多くの人々の思いを誘引したのであろう。
 現在日本の政治状況は、大阪が起爆剤になって活性化している。珍しいことに、「王将」の闘志と「のれん一代」のど根性が、再び大阪に燃えあがっているように見える。くれぐれもダメナ東京の新しいシンボル、東京スカイツリーなどに憧れたり、遠慮したりせず、通天閣独自の灯りを燃やし続けてもらいたいものである。それでなければ、二度と大阪が脚光を浴びることなどあるはずもない。詭弁を弄したり姑息な立ち回り方をしたら、かつての大阪人の心意気を広めた、この二つの懐かしい流行歌に申し訳が立たないのである。
 

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