新・帰ってきた日本

SCOT ブログ

March,24,2014

3月24日 「からたち日記」

 ヘンナモノが出て来ましたよ、と劇団員が古い原稿用紙の束を持ってくる。黄色くなった表紙には、手書きの字で「講談 からたち日記由来」と書かれている。舞台のための台本らしい。
 「からたち日記」とは先頃亡くなった島倉千代子の若い頃の歌。私の大学時代にはよく歌われていた。私はこの歌を、花火を組み込んだ野外劇、「世界の果てからこんにちは」で使っている。日本精神を郷愁する男の幻想の中に、洋傘をかざしたウェディング・ドレスの女性が登場し、花道を遠ざかる。その時にこの曲が流れるのだが、前奏が始まる直前には、こんな「語りの言葉」が入る。
 <しあわせになろうね、あの人はいいました。私は小さくうなずいただけで、胸が一杯でした>。この語り方の口調と独特な音色は、今や古風でアドケナク、なかなかマネのできないもの。私はいつもホホエミながら聴き入ったものである。
 この講談の台本は、枢密院副議長芳川顕正伯爵の娘、鎌子と芳川家のお抱え運転手倉持陸助が相思相愛になり、二人で列車に飛び込む事件、運転手は死に、鎌子は大怪我をしながらも生き延びてしまうという、大正時代に実際に起こった心中未遂事件が下敷きである。その上に、<心で好きとさけんでも、口ではいえず、ただあの人と、小さなかさをかたむけた…>の流行歌「からたち日記」の世界が展開していく。
 しかし、講釈師の口をかりて語られる内容は飛躍だらけ、どこまでがホントウで、どこまでがフィクションなのか分からない。トモカク、ナゼ、「からたち日記」という歌が創り出されたのかが、思わず吹き出してしまうほどに、屁理屈がついて大袈裟に書かれている。例えば、発端はこんな具合である。
 「人間は誰でも、心の片すみに、一冊の「からたち日記」をもっているとは、かの泰西の革命家カール・マルクスでありました。<中略>では何故それが、今まで人々の目や耳に、触れることがなかったのでありましょう。それは「からたち日記」とは他人のために書かれたものではなかったからです。自分のため、ただ自分のひそやかな願いごとのためにのみ、書かれるものだったからです」
 この作者によれば、「からたち日記」の作詞者は西沢爽ではなく、芳川鎌子ということになる。生き延びて尼僧になった芳川鎌子が、信州の山奥で死ぬ直前に書いたものが、死後に発見されたことになっているのである。この台本作者の妄想的なモチーフ=執筆の動機は次のようなことらしい。
 「大正6年、西暦1917年、<行こか戻ろか、オーロラの下を、露西亜は北国、はてしらず…>のロシアに、決然たった一人のますらおがありました。それこそ誰あろう、かのカール・マルクスの弟子、ウラジーミル・イリイッチ・レーニンその人であります。このレーニンはいいました。
 諸君、もはや「からたち日記」を捨てる時が来た。これからの時代は、「からたち日記」のいらない時代になるであろう。なぜなら、一冊の「からたち日記」ももてない時代は、不幸にはちがいないが、「からたち日記」を皆が必要とする時代こそ、なお不幸であるからです」
 レーニンの言葉にしたがって、「からたち日記」を捨てたロシア人が、ソ連になって幸せな人生を送ったとは思えないが、ともかくこの作者は日本貴族の娘、芳川鎌子の悲恋に同情しつつも、こんな歌は日本からも早く消えてしまうことを願っていたらしいのである。
 この台本を読んだ劇団員の幾人かが、面白いから上演してみたいと言う。私はチョット時代錯誤的で、ハズカシイのではないかと言ったのだが、もはや島倉千代子の歌なんぞ、聞いたこともない俳優たちが殆ど。コレハ、シンセンダと言う。
 どうやら俳優たちは、タイクツシタラシイ。私がギリシャ悲劇やシェイクスピアの残酷で深刻な戯曲ばかりを舞台化するので、スコシ、イヤケがさしてきたのかもしれない。そう感じた私は、オモイキッテ妥協をした。昔の劇団員とはいえ、オカシナ奴も居たものだ、しかし、それもSCOTの幅の広さの証明ぐらいにはなる、ハデニ、フザケテミテクレ!
 俳優たちは、モリアガッテいるらしい。宿舎の側へ行くと実にウルサイ。チンドン屋から楽器を借り「からたち日記」を演奏しているのである。ソノ、ヘタサに少し呆れるが、まあ俳優にとって、モリアガリは何よりも大切、イツマデモ、コノママデモ、アルマイ。演出家人生で初めて経験する、不安と我慢の毎日である。

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March,14,2014

3月14日 自分に危険

 社交界の花形として、上流階級の男たちを手玉にとっていた美貌で知的な娼婦が、ウブな若者と恋に落ち同棲する。若者の父親が家をたずねて女に言う。息子とワカレテクレ、我が家の財産をあなたに譲ると言っている。トンデモナイコトダ。女は答える。その話は断った。カネは男から貰ってはいない、自分のカネを使っている。サッサト帰ってくれ。そこで父親が言うのである。
 その言葉を聞き、その応対振りを見ると、付け焼き刃の言葉とも、芝居がかった物腰とも思われん、世間の噂どおり、あんたはなかなかしたたかで危険な人だ。
 父親は自分の息子が身を誤った、家庭を顧みなくなった、それはこの女のためだと思い込んでいる。実際には、男が先に女に惚れ夢中になったのだが、父親は自分の息子が悪いとは思っていない。身近なものを悪く思いたくないのは、人間の性癖である。非行少年の母親が、自分の息子がグレタのは、友達や学校のセイだと思い込み、他人を非難するのと同じである。この時の女の返答がケッサクである。危険と申すのは自分にとって危険なので、他人様に危険なのではございません。
 この切り返しの啖呵(タンカ)は、なかなか見事だと感心する。ヴェルディのオペラで有名になった「椿姫」の原作戯曲、フランスのアレクサンドル・デュマ・フィスの作品の一場面だが、上手いセリフを書いたものである。何かの折りに、チョット口にしてみたいと思わせられる。唐十郎の戯曲に、私は騙されたと言った女が、人間は他人に騙されたりはしない、自分に騙されるのだ、と男に言われる場面があったと記憶するが、同種の発想ではある。
 自分が危険、これを他人に堂々と言えるのは、自信がある証拠。この危険は摩擦を承知で、自分のこれまでの生き方を変えるということだから、実行するには相当なエネルギーが要る。「椿姫」の主人公は、そのエネルギーが自分の中に在ることを発見し、自分に新しく期待を抱いたのである。
 いつだったか、有名女優に言われたことがある。ホントウだとかウソだとか、そんなことはドウデモイイのよ。騙されると知ってはいても、少しの間でも自分が情熱的になれるんだったら、イイジャナイ! コマッタ女優である。自分を騙してくれる対象が出現することを積極的に望んでいる。しかし、自分の心の退屈を、ここまで自覚しているなら、マア、イイカとも思う。これも相当な自分への自信に裏打ちされていなければ言えない言葉。世間のしきたりや他人の顔を伺いながら、チマチマとした自己満足と、時折チッチャナ自己欺瞞を正当化して、日々を安穏に生きている人たちよりは女優らしく、イカシテはいるのである。まあ、勝手にしてください、お手並み拝見といったところ。
 もう30年以上も前、伊豆の温泉宿で哲学者の中村雄二郎さんと、一冊の本「劇的言語」を刊行するために、三日三晩の対談をした。当時は、連合赤軍が大量の仲間を殺し、世の中を騒がせた直後である。既成の権力の打倒を目的とする革命集団の幹部が、疑いをかけた仲間を次々とリンチ殺害した集団犯罪である。それについて私は発言した。ジャーナリズムは、これでも人間か! と書くけれど、これが人間だ! と書くべきだと。
 私の言いたかったことは単純なこと、これでも人間かと書くとしたら、ジャーナリズムには人間を人間たらしめる基準が確固として存在し、その基準の内には殺人という行為は含まれていない、と考えていることになる。これは私とは、根本的な認識の違いであった。古今東西、殺人こそが人間のもっとも不可解な行為であり、その不可解性が人間を人間たらしめてきた、というのが私の認識だからである。これは現代に於いても、ますます顕著になっていることではないか。
 街路で通りすがりの人を突然に殺す人間、自分の生んだ子供を虐待して殺す母親、虚偽の理由を捏造し、他国の市民を無差別に殺戮する政治家、これらの行為はなに一つとして、多くの人に理解され、その意味を共有されているとは思えない。理解不能、それが人間なのである。人間はそれ自体では善でも悪でもない。状況次第では、どのようにでも変化する生き物、その変化の多様さと不可解さに言葉を与え、その行為の意味を集団で共有しようとするのが、むしろ人間らしい努力。これでも人間かと、犯罪や危険な心情や常識を逸脱した行為をただ抑圧したり排除したら、人間理解の進展はおぼつかない。例外的に見える人間の行為や心情こそを、これが人間だと見做し物事を考えていくべきではあるまいか。
 一般的な常識からすれば、逸脱した行為をしている自分は、他人に危険なのではなく、自分に危険だと言い放つ「椿姫」の女主人公は、なかなか醒めていて勇気がある、魅力的な人間である。
 まず常識的な理解を越えるものにこそ、人間の姿が鋭く顕現していると考えること、これは近ごろの日本人、とりわけ教育現場で忘れられていることのような気がする。表面上、ただ杓子定規に真面目な人間は、人の好い無邪気な人間と並んで、現在の日本では、それほど意味のない存在なのではあるまいか。 

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March,10,2014

3月10日 亡命

 女優の顔が時折チカチカと光る。舞台装置の表面に、淡い光が円を描くように流れる。舞台進行中のことである。ナンダロウ、コノヒカリ、と思って客席の後ろを振り向くと、最後列に恐い顔をした一人のオジイサンが座っている。懐中電灯を手にして、こともあろうに舞台に向かって点滅させているではないか。その真剣な顔。1999年、モスクワのタガンカ劇場の芸術監督ユーリ・リュビーモフが、静岡芸術劇場で彼の演出作品を公演した時である。
 終演後にタガンカ劇場の俳優に聞くと、それはダメダシの合図、懐中電灯の点滅の仕方や光の流れ方は、舞台上の俳優への注意だとのこと。声が弱い、動きが鈍い、演技全体のテンポを上げろとか、細かく取り決めがあるのだそうである。オーケストラの演奏家が指揮者をたえず注視しながら、その演奏を展開するように、タガンカ劇場の俳優はたえず客席最後列の中心に点滅する、光を意識しながら演技を続けることになる。
 古代ギリシャ劇場や古いオペラ劇場や昔の能舞台には、神官や王様や将軍の座る席が客席の中心に在り、俳優はたえず、その中心に向かって演技という行為、身体を見せ声を聞かせていた。その中心に懐中電灯が座り、光ったり消えたり、こんなことをされたら演技に集中できないと、不平不満をぶつける俳優がいても良さそうにも思うのだが、そこはエネルギッシュで戦闘的、当時のリュビーモフは、よく俳優をオサエコンデイタ。
 リュビーモフとはシアター・オリンピックスという演劇祭を創設した仲間。もう20年もの親しい友人付き合いだが、彼は1917年の生まれである。ロシア革命の年だから、今年には97歳になる。今やソビエト連邦誕生から崩壊に至るまでの年月を生きた数少ない存在。
 1980年代、ソビエト政府のイデオロギー統制による検閲が強化され、タガンカ劇場での彼の演出作品の幾つかは上演禁止となる。1984年、イギリスの新聞のインタビューで激しくソ連の文化政策を攻撃し、ソ連国籍を剥奪されるが、ゴルバチョフのペレストロイカ時代の1988年、英雄のように迎えられ、再びタガンカ劇場の芸術監督に就任する。その彼と、私が親しく付き合うようになったのは、ソ連が崩壊して再び、ロシアという国が生き返ってからである。
 今年の初めにリュビーモフから、彼のための記念行事が4月にあり、世界中から彼に縁のあった人たちが参集するが、私に何かスピーチをと頼まれる。その時には彼の演出作品の二つ、ドストエフスキーの「悪霊」とボリショイ劇場のオペラ「イーゴリ公」が上演されているとのこと。丁度その頃、私は上海で上演する「シンデレラ」の稽古中、中国の俳優たちを利賀村に残して、ロシアへ行くことにはためらいがあり一度は断ったが、リュビーモフだけではなく、その他のロシアの演劇人からの要請もあり、久しぶりにロシアを訪問することにした。これが最後の顔合わせになるかも、という気持ちもある。
 私にはいろいろな国に演出家の友人がいる。しかし、このリュビーモフには特殊な敬意と興味を感じてきた。彼が亡命生活をしているからであった。市民権を奪われ自分の祖国へ帰れない境遇、これだけは私がどう転んでも、もはや手にすることのできない経験なのである。その時の人間の心境、もちろん人や国柄によっての違いはあろうが、それはどんな感じのものか。リュビーモフの亡命中の生活自体は、ヨーロッパ各国の政府や演劇人の応援もあり、それほどの難儀があったとは思えないが、精神的には何があっただろうか、私にはなかなか納得できる手づるがないのである。
 ポーランドの作曲家ショパンは20歳の時に、彼の才能を評価する人たちの期待を背負って祖国を離れる。当時のポーランドはロシアの支配下にあり、彼の国外滞在中にはポーランドの独立を願う人たちが武装蜂起するが失敗。ウィーンやパリには多くのポーランド人が亡命した。ショパンも望郷の思いは強かったが祖国には帰らず、フランスの市民権を取得、亡命した人たちとの交友を重ねた。そして1849年、ショパンは39歳でパリに死ぬ。
 彼の遺言はすさまじい。遺体はパリに埋葬する、しかし、心臓は取り出してワルシャワに埋葬しろ。驚くべきことに、この遺言は実行され、心臓はアルコールの入った壺に納められ、ワルシャワに埋葬されたという。望郷の心が心臓になって、祖国へ帰還したのである。
 政治権力の強制によって、帰れぬ祖国を思いながら他国で生活する。この時はどんな心境になるのか、私は今までリュビーモフにそのことを尋ねたことがない。今回の訪問では、それを聞いてみようかと思っている。 

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