新・帰ってきた日本

SCOT ブログ

March,28,2015

3月28日 二つの大国

 3月14日に東京-富山間の新幹線が開通した。東京から富山まで2時間と少し、富山県内には黒部、富山、高岡と三つの駅が出来た。その開通記念というわけでもないが、高岡の文化会館で今日「シンデレラ」の公演をする。俳優は殆どが中国人、私が教えた北京と上海の演劇学校の卒業生が中心である。昨年の春、上海で一週間の上演をした。
 今年の秋から私が芸術総監督になって、中国に劇団を作る計画が進んでいる。その中心として活躍してもらう俳優たち。まだ若いが、利賀村のSCOTの活動に触れたり、私の考案した訓練によって技術面は鍛錬をしているので、作品は創り易い。劇場で仕込みをしても、SCOTの劇団員と同じように、装置や照明の準備のためにコマメニ働く。
 これがナマジ、プロの俳優としての長い経験を積んでいると、演劇人ではなく、タダ俳優というだけの人間になってしまい、劇場人として舞台造りに加わることをしない。専門分化した既存の演劇界の悪習に染まっている。
 これはどこの国でも同様である。演出家や俳優や照明・音響などの技術スタッフはいても、真の劇場人=演劇人が存在しなくなった。そういう人たちは専門家を気取ったプライドをひけらかしてはいるが、演劇人としてはナマケモノに過ぎないことが多い。実際は身体の感受性は鈍くなっているし、精神の柔軟性も欠けている。だから、いろいろと在る他の分野の仕事に興味がイカナイ。それほどの歳でもないのに、いつの間にかフケテしまって、自分の馴染んだ仕事だけに埋没している。
 日本以外の国での演出を依頼されたことは多い。しかし今までに、外国に劇団を創設したのは一度だけ、もし実現すれば、今回の中国が二度目になる。
 1992年、現在はコロンビア大学の教授、当時はアメリカ演劇人連絡協議会の会長だった女性、演出家アン・ボガートとニューヨーク州のサラトガ市に共同で劇団を作った。その頃のアメリカはプロデューサー制が主流で、演劇人が一つの理念を軸にして同志的に活動する演劇集団が少なかったし、あっても一時的で何年も持続することがなかった。ブロードウェイに象徴されるように、劇場とプロデューサーが俳優やスタッフを集め、作品を製作するシステムなので、一度その作品の公演が終わると、もう一度その作品を再演するのが難しい。関係者が次の仕事のためにバラバラになってしまうからである。
 こういうアメリカの演劇状況に不満な人たちが、アン・ボガートと私を芸術総監督にして劇団に結集した。当然のことながら、私とアン・ボガートの演出作品に出演した俳優たちが多い。劇団名は「サラトガ・インターナショナル・シアター・インスティテュート」略称はSITIである。現在はニューヨークを中心に活躍しているが、初期にはニューヨークから車で3時間ほどの距離にあるオシャレナ町、サラトガにあるスキッドモア大学の劇場や宿舎を借りて活動した。私も5年間はこの大学の側に家を借りて、一年のうち3ヵ月は滞在した。
 この劇団SITIは舞台作品を発表するだけではなく、アン・ボガートと私が、それぞれに考案した俳優訓練を教えている。世界中から多くの俳優が学びに参集しているようである。外国で初対面の俳優に時々言われる。スズキセンセイの訓練を学びました。SITIの教育事業に参加して、私の訓練に出会った人たちが殆どである。
 SITIに関わっていた頃は、よく言われたものである。スズキ演劇はアメリカで生き残ることになったね。たしかにアメリカでは、私の舞台の主役を演じた俳優や訓練を習得した人たちが、演劇界で活躍していることも事実。
 先頃、中国共産党の機関紙の人民日報に、私に関する記事が連続して掲載された。それを読んだ日本の評論家に、ヒヤカシ半分に言われた。スズキ演劇は中国に、トラレテ、シマウ、かもね。人民日報に書かれた私の記事は、私自身が驚き感心するほどに、私の仕事とその背後にある考え方を見事にとらえていた。私は日本の評論家に言った。タシカニ、日本の新聞で、コレホドノコトを書かれたことはないからね。
 今年の6月にはアメリカと中国で同時に、私の新しい本が出版される。両国ともにその本の刊行時に私を呼び、気勢をあげるイベントを開催する計画を立てているらしい。21世紀の大国であり、かつその言動のために、世界中がハラハラさせられるアメリカと中国、そういう国で私の演劇がどのように生き延びていくのか、それを想像することは楽しくないこともない。 

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March,19,2015

3月19日 尽きない妄想

 1982年のことだから、もう30年以上も前になる。二週間ほど、カリフォルニア大学サンディエゴ校の演劇科の学生に、私の俳優訓練を教えに行ったことがある。構内を歩いていると、聞きなれた歌曲が聞こえてくる。森進一の「ひとり酒場で」、ありきたりの歌詞であり曲である。
 歌っているのは一人ではない。30人ほどの人たちによる大合唱。もちろん、日本語、それが私にはヘタな軍歌のように聞こえた。日本の流行歌も強弱アクセントで大勢で歌うと、マルデ軍隊の行進曲のように聞こえる。私はスコシ恥ずかしかった。一人の男が夜の銀座で、別れた女のことを忘れられないで吞んでいるのだ。コンナノハ、ユーモアのある心で日本、特に利賀村のような所で歌うべきもの。アメリカの大学のキャンパスで大勢で歌うようなものではない。歌詞が解る人がいるかもと、思わずマワリを見回したくなる感じだった。私は内心でナニモ日本語で歌わなくてもと思いながら、大声のする教室に入る。学生達が車座になって、ローマ字で書かれた楽譜を見ながら歌っていた。
 「ひろい東京にただ一人、泣いているよな夜が来る、両手でつつむグラスにも、浮かぶいとしい面影よ、夜の銀座で飲む酒は、なぜか身にしむ胸にしむ」これが「ひとり酒場で」の一番の歌詞である。こうして書き写してみると、ヤハリ、陳腐そのもの、ハズカシイ歌詞なのである。
 この当時の私の劇団は、発声訓練のために流行歌を使っていた。日米友好基金の援助で、毎年アメリカ各地の大学から、幾人かの教師が私の訓練を学びに来ていた。その中に、カリフォルニア大学の演技指導教師がいて、その人がSCOTの劇団員と共に練習した日本語の歌を、そのまま教えていたのである。
 最近では稽古前の発声訓練に、演歌調の日本の流行歌を使うことはない。理由は外国からの出演者が多くなったことによる。それぞれの俳優の母国語で、シェイクスピアのマクベスの台詞を語らせている。その言葉は、「明日、また明日、また明日と、時はこきざみな足どりで、一日一日を歩み、ついには歴史の最後の一瞬にたどりつく、昨日という日は、すべて愚かな人間が塵と化す、死への道を照らして来た。消えろ、消えろ、つかの間の燈火! 人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ……」
 「ひとり酒場で」の歌詞と比べると、ジツニ哲学的なもの、雲泥の差がある。もちろん私には、日本の流行歌のハズカシイ歌詞に、なにがしかの想い入れがあったから、訓練にワザと使用したのである。
 私はその頃、稽古前の発声と呼吸の訓練には、森進一の前記のものや、昭和初期に流行した「裏町人生」、「波止場気質」などを使用していた。平凡な歌詞で変化の少ない類型的な曲ほど、初心俳優の日本語の訓練の材料としては適していたからである。古賀政男作詞作曲の「影を慕ひて」などは頻繁に使用した。この曲の旋律とテンポのゆるやかさが、身体を動かしながら発語するのには具合が良かった。言葉も身体に懸り易く、気持ちも乗せ易かった。
 この曲の成立は昭和3年、昭和4年にレコーディングされたが、すぐにはヒットせず、昭和7年になって藤山一郎が歌って流行した。戦後では美空ひばりが歌っている。
 「まぼろしの影を慕いて、雨に日に、月にやるせぬ、わが思い、つつめば燃ゆる、胸の火に、身は焦がれつつ、しのびなく」これが歌詞の一番である。
 この曲の演奏に合わせて、蹲踞(ソンキョ)からゆっくりと等速度でつま先立つ、そしてまた、同じ速度で蹲踞に戻る。この動作の間に一番の歌詞を歌い了えるのである。重心を安定させ上半身を動かさずに、腹の奥から声を共鳴させて出すと、恋に破れたセンチメンタルな男の心情が、孤独な男のスガスガシイ心意気の表明のようになるからオカシカッタ。男優全員が日本語の高低アクセントで上手に歌うと、恋に破れた心情も、ケッコウ、イサマシク聞こえるのである。
 最近、古賀政男がこの歌について語った言葉に触れ仰天した。池田憲一の「昭和流行歌の軌跡」に出てくるのだが、これは彼の革命への憧憬の歌だったらしいのである。
 「世の中は金がすべてではないはずと思って明大に入り、アルバイトをし、汗水流して卒業してみたら、どうです、社会から与えられたのは雀の涙ほどの給料。これが歯をくいしばって大学を出た代償かと思ったら、情けなくて自殺まで考えました。マルクスを学び、本当に一時はそちらに走ろうかとまで思いました。「影を慕ひて」は失恋に形を借りた私の絶望感の表現だったのです。気障ないい方ですが、あれは生活苦の歌なんですよ」
 古賀政男のこういう言葉に触れると、カリフォルニア大学の構内に流れた、「ひとり酒場で」のグラスに浮かんだいとしい面影も、マルクスだったかもしれないではないかと想像もしたくなる。カナラズヤ、作詞者は革命運動に挫折した金持ちのボンボン、ひとりシミジミと、日本の資本主義的繁栄の現実に、銀座で苦悩煩悶しグラスを傾けていた。ウエイトレスの対応はドウデアッタカ、後ろ姿は、ドンナフウニ淋しく孤独だったのであろうか。
 この歌の背後に隠され、表現されていたものは、失恋した男の女々しい心情ではない。古賀政男の生活苦と対をなす、コウマイな精神苦。だから、大勢のアメリカ人が勢いよく歌うと、戦闘的な軍歌のようになったのではあるまいか。
 いつものことだが、昭和の流行歌に刺激されると、私の妄想は尽きない。 

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March,12,2015

3月12日 幻心

 一週間ほど前は、雪の降る日が少なく、少しだけ利賀村も春めいていた。道路脇にはまだ、身の丈以上の雪が残っていたが、快晴の時は気持ちがよかった。歩きながら深呼吸をし、思わず呟いてしまう、キモチガイイ。タカガ晴天、不思議といえば不思議だが、ホガラカな気分にしてくれた。東京では快晴になろうが深呼吸などしたことはない。初歩的で素朴な行為だが、マダマダ、ガンバラナケレバ、残り少ない人生への励ましに、深呼吸が転化するようでオカシイ。
 かつては少年自然の家として、多くの子供たちが宿泊していた施設がある。現在は劇団の稽古場や食堂、トレーニングや演出コンクールに来た外国人の宿泊場所として使用されている。利賀村のお年寄りが時々掃除に訪れる。先日ロビーですれ違った時には、春が来てウレシイ、ウレシイと嬉しそうに話していた。
 それがどうだろう。4日前から猛吹雪の連続、歩いていると強風に舞い上がった雪で、一メートル先も見えなくなる。しかも、トギレルということがない。連日50センチの積雪。一晩経つと家の戸口から外へ出られないことにもなっている。二階の屋根に積もった雪が落下、入り口の前に硬く盛り上がってしまう。窓からの視界も遮られ、室内は朝とも思えず暗い。
 一昨年、空き家になった大きな民家を買い受けた。20年以上も一人で暮らして居た84歳のお婆さんが、山の下にある町の老人ホームに入居するので、私に買ってもらえないかという意向があったからである。いつも夏の野外劇場の公演を一人で観にきてくれていた。豪雪に見舞われる山奥、この年齢ぐらいが一人で頑張れる限度かと淋しく思うが、その反面、我が身の行く末を想像しながら、ヤハリ女の人は強いと感心する。
 大きく立派な家だったが、三畳一部屋に身の周りのものを揃え、寝起きしていた。食堂とトイレ以外の残りの部屋は殆ど使用した形跡がなかった。風呂場の脇には、短く切られた薪が、いくつか転がっていたから、時としてお風呂は使っていたかもしれない。気温が絶えず零下になる季節などには、湯を沸かすのにも骨の折れることだったろうと推測できる。私だったら一カ月ぐらいは、湯には浸からないかもしれない。誰かに会うわけではないなら、自分の匂い、少し臭いぐらいは平気である。子供の頃は風呂に入ることほど、メンドクサイ、と思ったことはない。
 昨年の春に、海外から訪れた演劇関係者が懇談したり、食事のできる家に改築した。旧い時代の日本の手仕事の見事な技術が活かされた古い家、その古さが現代的なシャレタ雰囲気に優雅に転身したと感じたので、家の名前を少しキドッテ、「幻心」と命名した。
 今まで永年にわたって存在していた民家が、一つでも消えていくことは淋しい。何とか保存し上手な利用の仕方をしたら、村の人たちにとっても、いわんや一人で長年にわたって頑張って居続けたお婆さんの気持ちにも添うのではないかと、オモイキッタ。 
 訪れた人や劇団員が、この家は住む家ではないね、と言う。舞台装置みたいなのだそうである。だから、「幻心」と名付け、夜遅くまで稽古ができるようにしてある、と私は言った。すると女優の一人が、集中し過ぎてヘンナ気分になりそうな空間だと言う。私は言う。オマエラガ、集中し過ぎるとどうなるのか、見てみたいネ。キツネツキにでもなって、驚かしてくれよ。ソレガ、サイコウノ、フィクション。幻心だよ。
 夏になって、老人ホームに移住していたお婆さんが、娘さんに連れ添われて訪ねてきた。どうなったか、一目見たいと思って、と。あまりに変化していたので驚いたのか感心したのか、何度もお礼を言い、仏壇のあった押し入れの方にお辞儀をして、嬉しそうに帰っていった。自分が生まれ育ち、一人で20年も生活した家、それがまだ故郷の山裾に残っていることを確認し、安心したようである。
 長年の生活の苦労も、遠くから楽しく思い出してくれるようだったら、私は幸せである。お婆さんが元気でいられること、出来ることならもう一度、野外劇場の公演を観にきてくれることを願わずにはいられない。 

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