新・帰ってきた日本

SCOT ブログ

August,31,2015

8月31日 将来に向けて

 SCOTサマー・シーズンの二週目が終わる。昨年より一週間、公演日を増やしたのだが、今年も劇場の収容人数を超える観客が来村。嬉しいかぎりである。満席を承知で観劇を望む人の列ができる。こんな山奥にまで、ワザワザ来ていただいたのだから、なんとか希望に添えるようにしたいのだが、野外劇場はともかく、合掌造りの小劇場は客席のフレキシビリティーが少ない。新利賀山房の公演は追加することにした。
 今年は世界中から、私の訓練をマスターした俳優たちが参集してくれた。私がスズキ・トレーニング・メソッドと呼ばれる演技訓練を開発したのは、約40年前である。この訓練に最初に注目したのが、アメリカの演劇界。政府系の財団の支援で数年にわたって全米から多くの俳優が来村して研修をした。その第一期生ともいうべき人たちは、俳優としてもすでにアメリカで大活躍している。年齢的にはもう60近い人たち。利賀村での活動の長い歴史を、そちらからも感じさせられる。
 今夏も世界25カ国から300人ほどの人たちが来ている。私の訓練生の第五世代とも言うべき中国人の数が増えている。中国の教育機関や劇団で、私の訓練への注目度が急激に高まったからだが、自国以外の文化を吸収しようとするときの積極的な行動力を、昔のアメリカ人の意欲と似たように感じる。
 例年のことだが週一回、観客の質問に答える機会を設けている。二回とも、この利賀村の後継者をどうするのか、と聞かれる。利賀の将来について質問されるのは有り難いことではある。常日頃に考えていることだが、コト芸術面では後継者があることはない。政治家や経済人あるいは伝統芸能の役者のように、自分の二代目が世襲的に存在することなど、芸術家にあるはずもないから、ソノヨウニ、コタエル。むしろ芸術的には、私とマッタクチガウ作品を創る人であったり、バアイニヨッテハ、外国人であるかもしれない。タダ、利賀村で展開されている事業は行政との共同作業、その面での日本的制約を、ジョウズニ踏まえて活動できる能力のある人でないといけない。
 質問されて改めて思ったのだが、演出活動は家業ではないから、二代目を作ろうなどと、ソンナ気分になったら、モウ、オシマイだろう。演出という仕事は、目に見える形になって残るものではない。空間と時間の一瞬の組織者であるに過ぎなく、それも観客と呼ばれる人たちが存在してくれなければ成立しない、マコトニ、寂しい行為なのである。その寂しさへの感じ方は、人それぞれによって大きく異なる。
 しかし、そうは言っても私はカネガネ、自分は演劇をやっているつもりはない。日本の現状を批判的に検証し、未来への夢を描く社会活動をしているのだと公言してきた。そのために興行活動のような入場料金制度も廃止した。そして、多くの理解者の賛同のお蔭で、コンナ山奥に、世界の文化関係者が羨むミゴトナ施設群が出現した。
 この発端はマッタク、南砺市になる前の利賀村、人口1,500人の過疎村の果断な決断によるのだが、この決断に込められていた願いだけは、私の存在がどのようになろうとも、実現に向けての努力はされなければならないとは思っている。どんな形になるにせよ、この施設を充分に活用し、多くの人たちの人生に励ましを与えることのできる後継者の出現を実現するのは、私の責務には違いない。
 40年を経過した現在、モノゴトハ、ソノヨウニ、進んでいないわけではないが、いずれにせよ、利賀の活動に賛同してくれた観客、毎年増え続けている若い観客、その人たちの利賀への期待を前提にしないわけにはいかないだろう。 

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August,05,2015

8月5日 夜の訪問者

 私の舞台は殆どが一時間強の上演時間のものだが、二つのタイプがある。原作のテクストのストーリーが残されているものと、まったくストーリー性のない独立した場面の連続で構成されたものとである。前者の代表的な作品には、「リア王」や「エレクトラ」や「ディオニュソス」があり、後者の代表例が「世界の果てからこんにちは」や「劇的なるものをめぐって」あるいは「からたち日記由来」である。
 この二つのタイプの作品群は、芸術的な側面から言えば、ストーリー性を備えているかどうかが主要な違いではない。舞台上で語られる言葉の在り方によって、その違いの特質があると言ったほうが適切であろう。
 つまり前者は、舞台上のすべての言葉が一人の作者の意識性によって生み出されているが、後者は全く違う複数の人間が書いたり語ったりした言葉、それによって独自に構成された場面が連続的に展開しているのである。
 さらにその違いを詳しく言えば、音楽の在り方が異なる。楽曲の演奏だけのものと歌われる曲の違いがある。歌われるということは、その曲の歌詞=言葉が、舞台を構成する重要な要素として存在するということでもある。そして、歌われる曲は殆どが流行歌である。
 小川順子という歌手がいた。今やこの歌手を覚えている人は稀だと思う。三年ぐらい活躍しただけで、その後はウントモ、スントモ話題にならないで消えてしまった。この歌手が一曲だけ私に、素晴らしい歌謡曲を残してくれている。
 1975年、劇団の本拠地を利賀村に移す前年、題名は「夜の訪問者」。一人で夜を過ごしている少女の生態が、可愛い声で楽しく歌われている。この歌謡曲は現在でも、ワラエテ、タノシイ。一番の歌詞は次のようである。
 雨の匂いが、十九のこの胸濡らす、白い扉に、あなたを想うの、夜の鏡に、愛を問いかけ、一人涙を、みつめて泣いた、きっと、きっと、又来てね、素敵な私の、夜の訪問者。
 私は初めてこの歌を、東京は高田馬場の駅前のパチンコ屋できいて、ビックリ。すぐ有線放送の会社に問い合わせ、題名と歌手の名前を知ったのだった。ナゼ、オドロイタノカ。コノ歌詞が想像させる少女の状況が、私が舞台を発想するときの絵柄と類似していると思ったからである。
 孤独な少女と孤独な老人の違いはある。しかし、夜な夜な素敵な訪問者が来ることを待っている。これは、私が舞台を創り始めるときの発想にピッタリ。むろん私の舞台に登場する夜の訪問者は素敵な恋人ではない。少女は夜の鏡に向かい男を想う。そして問いかける。カガミヨ、カガミヨ、世界デ、イチバン不幸ナノハ、ダーレ? ソシテ、自分ノ不器量ニ、オモワズ涙スル。
 私の舞台の登場人物も、独り孤独に椅子に座り、過去という<鏡>を覗きこみ問いかける。世界デ、イチバン、不幸ナノハ、ダーレ。そうすると、自分の生きたメチャクチャな人生の記憶が、妄想になって襲いかかってくるのである。その妄想の中をノタウチ回り、「リア王」の老人は死ぬ。
 「世界の果てからこんにちは」でも、過去の鏡から日本という妄想が襲いかかる。孤独な男が過去の鏡に問いかけたからである。セカイデ、イチバン美シイ国ハ、ドーコ? すると応えが返ってくる。オマエハ、スデニ、花ノ咲カナイ、枯レススキ、であると。男は襲いかかる世界の軍勢の妄想と戦い、敗れて述懐する。人生は歩きまわる影法師、哀れな役者だ、舞台の上で大袈裟にみえをきっても、出場が終われば消えてしまう。
 私は「世界の果てからこんにちは」の舞台の冒頭と最後のカーテンコールに、大音量で「夜の訪問者」が流れる度に、パチンコ屋でのこの歌との奇跡の出会いを、懐かしく思い出す。それどころか、客席で稽古をしながら、時として鼻歌交じりに、この歌に思わず唱和している自分に気づく。歌詞は少々、自分に引き寄せて変わっている。きっと、きっと、又来てね、素敵な私の、利賀の訪問者、と。 

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August,01,2015

8月1日 明鏡止水

 長らく魚の棲んでいない池の水を止めていた。しばらくぶりに眺めると、池の底の窪みに水がたまり、カエルの卵が一杯。ヌルヌルとした液状のものの中に、黒い目玉のようなものがギッシリと詰まっている。いずれは、オタマジャクシが出現するであろうと放置しておいたら、案の定、数え切れないほどのオタマジャクシがチロチロと泳いでいる。カワイイと言う劇団員もいるが、あまりの数の多さに少しキミワルサも感じる。池の中にイワナやマスがいれば問題はない。オタマジャクシはすぐ食べられてしまう。
 利賀村の夏、水溜まりはイケナイ。すぐにボウフラが湧き、蚊が発生する。ハエに似た緑の目をもつ吸血虫オロロも卵を産みつける。ともかく、水の流れが止まるということは、演劇の舞台にも最悪の環境を招く。野外劇場の背後の池の水が止まった時には大変だった。俳優がセリフを言うと、それにつられてカエルがケロケロと鳴く。劇団員の数人が舞台の進行中に池を取り囲み、カエルが鳴く度に石を池に放り、カエルを黙らせたものだった。それだけではなく、私の舞台は俳優が長時間ジット動かないことが多い。蚊に食われても身動きができない。終演後の俳優の脚は悲惨な状態になる。
 心でも身体でも、外からは止まっているように見えても、見えない気の配りや身体感覚は動きつづけ、滞ってはいけない。ところが、水が止まっている状態の言葉が、肯定的な精神状態を表すことがある。一カ所に止まって流れない水が、濁り腐るのではなく澄んでいるというから驚く。止水である。そして政治家や経済人は、トクイゲにこの言葉を使うのである。
 新国立競技場の建設計画が白紙になり、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の会長である森元総理が、IOCの理事会にそのことを報告に行った。理事会の会場に入る直前に、森元総理は新聞記者の質問に応えて言った。今の心境は明鏡止水だ。くもりのない鏡、澄んだ水のような心境、静かで邪念がないそうである。
 政治家や日本社会に影響力のある経営者は、時としてこういう言葉をシャアシャアと使うが、何かがズレテイルと感じざるをえない。この言葉は自分自身への皮肉として、ユーモアをもって、ニヤリと笑って言われるべきもの、願い叶わぬ願望の言葉である。その境地を生きているような顔をして言ったら、ウソニナルニ、キマッテイル。
 それだけではなく、政治家や経営者は、決してこんな心境になるはずもないし、また、ソウアッテモラッテハ困ると私は思う。ココマデキタラ森元総理は、残念無念、死んでも死にきれないよ! とナマグサイ顔をして叫んだ方がよかったのである。明鏡止水の心境で、マダマダ、ワルサヲサレテハ、国民がタマラナイ。
 ジツハ、私もカネガネ、この言葉をイツカ、ツカッテミタイとは思ってきた。しかし、どんな場所で、どんなタイミングで言うことがよいのか、今までのところ、そのメドがつかなかった。この先もしばらくは使えそうもないが、タダ、ハッキリしていることはある。この言葉を口にした時には、演出家は引退である。決して解決することのない人間関係の軋轢を、身をもって生きつづける職業の人間に、明鏡止水の境地などあるはずもない。
 この言葉を口の端にのせた以上、森元総理はあらゆる公職から退くべきだと思うが、ドウダロウ。通常の人たちとは神経の組織系統が異なっている政治家、しかもその親分を自認してきた人、蚊を発生させる水溜まりになっても、悪臭を放つ腐った水になっても、周囲の人たちに迷惑をかけることなど、屁とも思っていないかもしれない。
 日本人の好きな言葉に堪忍がある。仏語だが、中世の頃から<こらえしのぶ>、我慢することの意味で使われてきた。そして、この堪忍の精神は日本人の特徴的な美徳であり、この精神を身につけることは、人間関係のみならず、国家に平安をもたらすためにも大切なことだとされてきた。
 徳川家康は遺訓で言っている。人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し。堪忍は無事長久の基。己を責めて人を責むるな。どこまで本人が書いたのか疑わしいらしいが、こんな歌も詠んでいる。堪忍の袋を常に首にかけ、破れたら縫え、破れたら縫え。権力者らしい説教調の人生論である。
 森元総理をはじめ、最近の自民党政権の幹部たちの言動に触れると、自分たちは平成の徳川幕府を樹立した気になっているのかもしれないと思える。長期政権を前提の言いたい放題、やりたい放題。そして沖縄を見るまでもなく、国民には我慢を強要する。
 国民ノミナサン、国ガ安泰デアルタメニハ、堪忍ガタイセツ、私タチヲ、選ンダイジョウ、私タチヲ責メテハイケナイ、マズ自分ヲ責メルコトデス。
 国民の堪忍袋はいつ、縫えないまでに破れるのであろうか。
 

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