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新・帰ってきた日本

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SCOT ブログ

December,25,2016

12月25日 変化への予兆

 最後の劇団総会で、来年の活動の日程が事務局より示される。承知はしていたものの、渡されたペーパーを見て、個人として既に活躍している演劇人が来村するだけではなく、来年は世界の多くの教育機関からも、学生が大量に利賀村に送り込まれることを改めて確認する。私が気楽に請け負ってのことだから責任は私にもあるのだが、これでは劇団員も忙しく、ダイジョウブカ、という思いも胸をよぎる。どれだけの活動が、ここに書かれているとおりに実現したか、その成果はいかなるものだったかを、来年の終わりにチェックしやすいように記録しておこうと思う。むろん、このスケジュールを失念した時の用心のためにでもある。
 
1月10日(火) 鈴木演出3作品の稽古開始
 
2月18日(土)~3月26日(日) 「青い鳥」(メーテルリンク作)の稽古と公演
<富山県内の中高校生と外国の演劇人が共同で創作する舞台。演出:マティア・セバスティアン>
 
4月8日(土)~21日(金) 鈴木演劇塾・中国(40名)
<北京郊外の古北水鎮で、中国全土から応募した演劇人を教える>
 
4月20日(木)~5月7日(日)
日本・インドネシア共同企画事業「ディオニュソス」(鈴木忠志演出)
<国際交流基金との3年間の共催事業。インドネシアの俳優17名が利賀に滞在して、日本、中国の俳優も参加し、第1期の稽古を開始>
 
5月7日(日)~11日(木) 利賀・鈴木演劇塾 YaleNUS大学(シンガポール・20名)
<シンガポール国立大学とアメリカのイェール大学が共同で創設した大学の学生が受講>
 
5月12日(金)~26日(金) 利賀・鈴木演劇塾 中国国立中央戯劇学院(27名)
<北京にある中国で唯一の国立舞台芸術大学。演技クラスの2年生全員と担当の先生が受講と訓練>
 
5月29日(月)~6月5日(月) 劇団SITI創立25周年記念・アメリカ公演
<アメリカの演出家アン・ボガートと鈴木が共同創設した劇団の本拠地・ニューヨーク郊外のサラトガでの公演(「トロイアの女」)>
 
6月19日(月)~7月1日(土) 中国国立国家大劇院創立10周年記念事業公演
<記念事業である国際演劇祭の一環として招待され、2作品・「トロイアの女」、「ディオニュソス」を上演。中国、韓国の俳優もSCOTのメンバーに加わる>
 
8月14日(月)~8月28日(月) 利賀・鈴木演劇塾
<世界15カ国の演劇人約30名と、デンマーク国立演劇大学から数名が参加>
 
8月25日(金)~9月3日(日) SCOTサマー・シーズン
<鈴木演出4作品の上演と、ロシア、中国、韓国の作品を招聘>
 
9月8日(金)~24日(日) SCOT中国公演
<万里の長城の麓の野外劇場と上海郊外の烏鎮で「シラノ・ド・ベルジュラック」を上演>
 
12月12日(火)~25日(月) SCOT吉祥寺公演
<鈴木演出の2作品を上演予定>
 
 この活動内容を子細に点検してみると、劇団SCOTと利賀村の存在が、来年あたりから大きく変化していく予兆のようなものを感じる。
 明日は劇団の忘年会。これで今年の活動はすべて終了する。不思議なことに、雪は殆ど積もっていない。来年は1月10日から活動開始。私も久し振りに、年末年始に利賀村を離れるが、その間に利賀村は豪雪に見舞われているかもしれない。 

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December,01,2016

12月1日 利賀村への道

 今年の後半は外国との縁で忙しかった。私の演劇生活の中でも久しぶりの年であった。SCOTサマー・シーズンが終了してすぐの、9月から10月にかけて、「エレクトラ」、「カチカチ山」、「トロイアの女」の公演のために、中国・ロシア・グルジア・ポーランドなどの国を廻った。それだけではなく4月には、北京郊外のリゾート地である古北水鎮、万里の長城の麓にある街の劇場に「鈴木演劇塾」を開設した。中国全土から40人ほどの演劇人を募集し、私の演劇観を話し、俳優訓練を実施。陳向宏さんという著名な経済人の応援で実現した。政治的には日本とギクシャクしているこの時期の中国に、日本人の私塾とも言うべき教室ができるとは、想像もつかなかったことである。
 この演劇塾は毎年開催することになっているが、陳さんは私がいつでも滞在できるように、野外劇場の脇に宿舎も建設してくれている。不思議と言えば不思議としか言いようのない出会いである。
 しかし、今までの演劇人生を振り返ってみると、新しく飛躍的な活動はいつも、予測もしない人との出会いがきっかけとなっている。早稲田小劇場や利賀村での活動も、芸術文化界とは縁のない人と出会い、その人たちの応援によって大きく展開した。親しい人たちから時々、あなたは人に恵まれていると言われるが、そうかもしれない。
 陳さんはこの古北水鎮の演劇塾が劇場と共に、世界的に注目されるようになることを願っている。私の力量でそれがどこまでできるか、ともかく経済人でありながら、演劇活動にまで財力を投入し、支援を惜しまない陳さんの厚意には、真剣に応えなければとは感じている。私の祖先が大変な迷惑をかけた国でのことである。
 11月には上海と広州の演劇祭にも招待され、「カチカチ山」と「リア王」の公演をした。上海の公演は、静安区人民政府が始めた演劇祭に招待されてのこと。開演前の舞台で区長たちとオープニングの儀式を行う。開演直前の同じ舞台で、儀礼的なことが行われ、それに立ち会うのは初めての経験だった。
 しかし今年の活動の中で末長く記憶に残るのは、ポーランドのブロツワフで開催された第七回シアター・オリンピックス、そのオープニングで「トロイアの女」を公演したことではないかと思う。この舞台のヨーロッパ公演は約30年ぶりである。
 シアター・オリンピックスはアメリカのロバート・ウィルソン、ギリシャのテオドロス・テルゾプロス、ロシアのユーリ・リュビーモフ、ドイツのハイナー・ミュラー、ブラジルのアントネス・フィーリョなど、世界的に活躍していた演劇人十数人と1993年に創った企画委員会である。
 なにがしかの組織的な実体があるわけではない。いろいろな国の政府や自治体、あるいは文化機関に呼びかけて、委員会主導の演劇祭やシンポジウムを開催してもらおうというものである。すでに物故した人もいるが、この20年の間には新しい委員も加わり存続してきた。今回のシアター・オリンピックスは、ポーランドから新しく委員として加わった、演出家ヤロスロウ・フレットが中心になり、ブロツワフ市の支援で実現したものである。
 「トロイアの女」の舞台は今の時代に相応しい内容だと好評だった。エウリピデスのこの作品は2000年以上も前に書かれたものだが、戦争と難民に悩み続ける現在のヨーロッパの人たちにはナマナマシク、身近に感じられる作品だったようである。ギリシャ軍に滅ぼされたトロイアの国は消滅する。男はことごとく殺され、生き残った女たちが奴隷としてギリシャに連れていかれるこの物語を、私は日本の第二次世界大戦の敗戦の悲惨な状況に重ねあわせて演出した。それが未だ、ヨーロッパの現在の状況への刺激的なメッセージ性を持てていたことは嬉しかった。時間と空間の違いを超えて、戦争によって不幸な境遇に陥る人間の悲惨さは普遍的である。
 このシアター・オリンピックスが創設された当時も、アメリカとソ連の冷戦が終結したのもつかの間、多くの人たちの平和への期待に反して、各地で民族紛争が多発した時期である。特に東欧の多民族国家は悲惨な紛争状態になった。民族浄化などという言葉が、人殺しや婦女暴行の正当化のために横行したのである。
 そのような民族的憎悪による紛争が世界に拡散しないように、演劇人として力になれることがあるのではないか、そんな願いがあって、心ある世界の演劇人がギリシャのデルフォイに集まり、シアター・オリンピックスという委員会を立ち上げたのである。その初心を改めて、ヨーロッパの地で感じられたのは感激だった。今回のシアター・オリンピックスの芸術監督を務めてくれたフレットに感謝である。
 それにしても、舞台の芸術的な質が高くなければ、上記のような実感が我が身に訪れることもない。その点では、劇団員の能力に支えられてのことである。よくここまで、劇団は芸術水準を保持できてきたと思う。
 実際のところ、如何に集団を維持するのか、この課題にかかずらわり、悪戦苦闘していた時期は長い。むろん今だってその解決を手にして、安定した心持ちでいるわけではないが、この課題に直面していた初期の頃に比べれば、幾分かは気楽になったとは言える。
 私が直面した課題には、二つの側面があった。一つは集団の経済的な基盤の確立、もう一つは集団の芸術水準の保持である。この二つの展望がないと、どんな御託を並べようと、利賀村での活動は消滅する。この危機感、というか恐怖に襲われていた時期はケッコウ長かった。
 集団という言葉を使うと、抽象的な印象を感じる人も多いだろうが、実感は違う。劇団は同志としての芸術集団である。毎日毎日、数時間も顔を突き合わせて行動するから、強い個人としての顔を持った人間、その人たちの具体的な数になる。それほどの人数であるわけではないが、その個人の経済基盤と芸術的な能力の水準を、どのレベルに設定し維持していけるのか、その展望とそれににじり寄っていく方法を手にしないと、利賀村という特殊な環境を選んだ活動の意味は、一種の思いつきによるタワゴトに終わる。そして、演劇という表現形式によって自分以外の他者に、ジカニ結び付くことは二度とできなくなる。集団固有の共同性は霧散し、その存在の社会的な意義は消えるのである。
 世界は日本だけではない、日本は東京だけではない、この利賀村で世界に出会う。1982年、当時の日本社会の東京一極集中の傾向に、大きくタンカをきってみせた私の言葉である。このスローガンとも言える言葉に促された行為が、劇団員を巻き込んだ無責任なそれに転化して、後悔に責められることになるのではないか。そのために注ぎ込んだ心身のエネルギーが、津波のように反転してきて、我が身に襲いかかってくるのではないか。これが集団のリーダーを望んで引き受けた当時の恐怖感の実態だった。
 利賀村での活動を開始したのは1976年、私が36歳の時である。東京のある新聞は「鈴木忠志・突然の発狂」と書いた。今思えば確かに発狂だったかもしれない。しかし、この発狂は演劇を通して正気にたどり着くための、私にとっての唯一の道だったと、懐かしく思えるようにはなったのである。大袈裟とも言えるこのスローガンの言葉は、40年を経た今でも、私の心に生きつづけている。むしろ、ますます新鮮になっているかもしれない。
 昭和9年、今から80年以上も前に、谷崎潤一郎は「東京をおもう」という一文で次のような発言をしている。
 「諸君のうちにはまだ東京を見たことのない青年男女が定めし少くないことであろう。しかし諸君は、小説家やジャーナリストの筆先に迷って徒らに帝都の華美に憧れてはならない。われわれの国の固有の伝統と文明とは、東京よりも却って諸君の郷土において発見される。東京にあるものは根底の浅い外来の文化か、たかだか三百年来の江戸趣味の残滓に過ぎない。東京は西洋人に見せるための玄関であって、我が帝国を今日あらしめた偉大な力は、諸君の郷土に存するのだ。私は何故地方の人が一にも二にも東京を慕い、偏えに帝都の風を学ばんとするのか、その理由を解するに苦しむ。例えば大阪のような大都会の青年男女でさえ東京というと何か非常にいい所のように思い、何事も東京の方が上だと考えて、自分たちの言語や習慣を恥じるような傾きがあるのは、彼等をそういう風に卑下させたのは、誰の罪か。近頃の為政家はしばしば農村の荒廃を憂え、地方の振興を口にするが、現今の如く帝都の外観を壮大にし、諸般の設備を首府に集中して、田舎を衰徴させた一半の責任は、彼等政治家にあるのではないか。私は地方の父兄たちが子弟を東京へ留学させる利害についても、多大の疑問を持っている。なるほど東京には立派な教授や学校があり、いろいろの教育機関が完備しているであろう。が、前途有為の青年を駆って第二世第三世の東京人たらしめ、小利口で猪口才で影の薄いオッチョコチョイたらしめることは如何であろうか。返す返すも東京は消費者の都、享楽主義者の都であって、覇気に富む男子の志を伸ばす土地柄でない」
 私には現在の日本について「我が帝国を今日あらしめた偉大な力」などと言う自負はとても持てないが、ここで言われている日本という国、なかんずく東京への認識はほとんど同じである。そして改めて、第二次世界大戦の敗戦によって、国土の大半が焦土と化したにもかかわらず、日本は何も変わっていなかったのだということに驚くのである。谷崎潤一郎が当時の中央公論にこの一文を書いたのは、私が生まれる以前のことなのである。 

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June,26,2016

6月26日 若い広場

 「アワレなるものからアッパレなるものへ、いかに、誰がアッパレなのかを、もっと明確にしたいということが、鈴木忠志の狙いでもあるんじゃないでしょうかね。現代、アッパレなるものが少ないですよね。あいまいな文化が多いなかで、明確で、これはアッパレであると、皆が拍手したがる空間性を狙っているんじゃないかと思います。それは成功しているんじゃないですかね」
 最近、偶然に見つけ出されたNHKのドキュメンタリー番組、利賀村で活動を開始して5年目、1980年に放映の「若い広場」の中で語られた言葉である。アワレとはある状況や状態に、心が哀しく動かされる時だけではなく、しみじみと感心したりする心の言葉、対象を賛嘆する時にも使われてきた。ナニカシラ、対象に身を入れ、心を寄せる優しい人間の様を想い起こさせるが、アッパレとは、このアワレの心情をさらに強めた言葉、感嘆する対象に出会った時の感動の心から発せられるものだとされている。アワレよりは、対象に対するホガラカサを感じさせる語感がある。
 この言葉の主は、若い時の松岡正剛である。タバコをフカシながら、私の活動をどう見ているかを語っていた。今時、アワレとかアッパレとか、こんな言葉を日常で口にする人はなかなか居ない。使い方がむつかしい。ヘタに使われたら、聞かされる方が、シラケルのである。
 こういう種類の言葉をサリゲナク使って、聞く人の意表をつくだけではなく、対象そのものの在り方を分かったような気にさせるのが、松岡正剛の才能である。言葉のパフォーマンス上手とも言うべきこの才能には、20代の頃からたびたび感心させられてきた。
 しかし、こういう言葉が自分の仕事に対して実際に使われると、ウレシクないことはないが、やはりテレルのである。そしてむしろ、マコトニ、ウマイコトヲ、イウ、と松岡正剛その人に感心させられてしまう。ココガ、松岡正剛が文化教祖になっていったユエンではないかと思う。彼には1977年、私の初期の代表作「劇的なるものをめぐってⅡ」の台本や演出ノート、上演舞台への国内外の批評、私についての彼自身が書いた論稿などを収録した、精力的で珍しいスタイルの本を編集・出版してもらっている。
 このドキュメンタリーの中では、写真家篠山紀信もコメントを求められて語っている。「演劇をやる空間からも創りあげて、そこでやるっていうことは、一番の理想じゃないですかね、演劇をする人にとってはね。10年前に見たのも、それは早稲田小劇場の自分たちの小屋だったんだけれど、今の方がより完成度が高いし、ちょっと言葉がないほどヘトヘトって感じですね」
 松岡正剛は私が利賀村で活動しだした狙い、その社会的意義の文脈を踏まえて語ってくれているが、篠山紀信は私の舞台そのものの出来具合の方から、その印象を語ってくれている。今から36年前、私が初めて建築家磯崎新と協力して創った、合掌造りの劇場のオープニング公演の時である。この時の出し物は、「劇的なるものをめぐってⅡ」と「トロイアの女」。30年以上も経って、再びこの二人の言葉に触れ、大きな励ましを与えられたことを思い出した。そして、今でもやはり、この言葉には励まされる。
 このドキュメンタリー映像には、野外劇場も大きな合掌造りの劇場・新利賀山房もまだ存在していない。野外劇場が建設された場所には、小さな池があるだけ。のどかにも、私はその池で釣りなどをしている。同じく磯崎新の設計になる野外劇場と、その背後にある大きな池は、1982年から始まった世界演劇祭「利賀フェスティバル」のために建設・造成された。
 当然のことながら、私も磯崎新もインタビューされているが、前記の二人と殆ど同年齢の40歳前後、四人とも顔も語り方も若い。むろん映像には、当時の劇団員も殆ど登場する。しかし、現在でも活躍しているのは、私の舞台の主役を演じてきた蔦森皓祐と竹森陽一、加藤雅治、塩原充知、それに私の五人だけ、それ以外の人たちはこの世を去るか、劇団を辞めて音信不通の人が多い。映像の劇団紹介の画面には字幕で、現在の劇団員は38名とある。隔世の感がするのである。
 このドキュメンタリーの中で、驚いた場面がある。というより、知ってはいたのだが、現在では見ることのできない光景に改めて出会い、やはり深い感慨に誘われた。
 突然、カメラが階段をなめるように上がっていくと、男優たちの寝室になる。そこは合掌造りの二階、わずかな隙間を残し、畳み三枚ずつが敷かれて、その上に布団がズラリ。周囲には日本酒の一升瓶がゴロゴロ、開かれたままの週刊誌には若いアイドルらしき女の大きな写真、それを見下ろすように胡座をくんで酒を飲んでいる男。俳優の何人かはカメラマンなどにオカマイナク、布団に寝転んだまま。熟睡している俳優もいる。
 こんな映像がヨク撮れたものだと感心しながら、私はツブヤイタ。マルデ、タコベヤ、ミタイダナ。見終ってから若い女優たちに、タコベヤという言葉を知っているかと聞いてみたが、誰もその意味は知らなかった。
 蛸部屋とは労働者を監禁状態にして働かせていた飯場=宿舎のことである。この呼称は、タコツボに入った蛸のように、飯場に入るとなかなか抜け出せない現場のイメージからきたらしい。第二次世界大戦前の工事現場には多く存在していたという。私もその実際を見たわけではないが、日本の戦前の労働環境を描いた映画などで、宿舎の雑魚寝の光景には接していた。
 現在の劇団員の宿舎は個室、洗面所にはウォシュレットの便器もある。各部屋の防音もしっかりしている。100人は泊まれるゲストハウスもある。活動開始当時は一つだった劇場も今では六つ、場所自体の風景も一変している。映像で見るそれとはまったく違っているのである。まさしくコレモ隔世の感。40年という活動時間の蓄積である。
 この映像に接して、劇団はこの山の中で、日本社会の激しい変化に対応しつつ、よくここまで生き延びてこれたと思った。そして改めて私は、家庭の事情や自分の才能への疑問から退団していった人たち、志し半ばで死んでいった人たち、ともかく利賀村の活動に少しでも関わってくれた人たちのすべてに対して、アッパレだったと言いたい気持ちがした。もちろん、このような映像を残してくれた、当時のNHKの関係者にも感謝するのである。 

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June,14,2016

6月14日 蜷川幸雄とのこと

 スズキサンはダイジョウブカ? それで何て答えた。元気ですよ、と言いました。ちょっと前までは、スズキサンはゲンキカ? だったんですけど。蜷川幸雄さんが死んだからですかね、ダイジョウブカは。事務局の女性が言う。事務局だけではなく、幾人かの劇団員が同様の電話やメールをもらったらしい。今年になって私が一度も、ブログを書いていないことにもよるだろう。
 ブログは五年のあいだ毎月、平均三本のペースで書き続けた。それが突然、何の予告もしないで五カ月間も中断したのだから、不審に思う人がいても当然かもしれない。書かなかった理由は、世間の動きや自分の身のまわりのことに心をとられないで、しばらくボンヤリとしていたかったから。しかし、そうもしていられない気持ちにさせられたのが、蜷川幸雄の死である。寂しさがヒタヒタと押し寄せてくるのである。蜷川とは不思議な縁があった。
 この歳まで生きていると、報道機関からいろいろなことについて質問や問い合わせを受けている。劇団の行動予定、他人の言動、社会現象への感想などである。稀に私生活の細部、家族の動静なども尋ねられた。おおむね正直に答えているが、劇団の行動計画などは、質問の時点で予定していたことと結果が異なってしまうことはある。しかしこれは、その後の劇団を取り囲む環境や状況の変化のなせることで、意識的な意図としての不正直ではない。
 私自身の私生活にかかわる事実関係についての問い合わせには、曖昧な返事をしたことはある。一度だけは、ハッキリとウソをついた。と言うより、先方の尋ねた確かな事実をハッキリと否定したことがある。その事実を肯定すると仕事の将来、私を見る周囲の人たち、特に演劇業界の視線が変化し、仕事を続ける時に心理的な煩わしさが起こると感じたからである。
 1997年の末、朝日新聞の演劇担当記者から電話があった。スズキさんもニナガワさんと同じように心臓の手術をしたと聞いたんですけど、ホントウデスカ? 私は即座に否定したが相手は納得しない。演出家の仕事がいかに身体的にタイヘンカ、記事に書きたいようなことを言う。私も演出の仕事が重労働だと思ってはいるが、そんな病気のことで、世間の人たちに演出について、ヘンな先入観をもたれてはカナワナイ。私は強く不機嫌に言い返した。ソンナコトハ、アリマセン! 相手は引き下がってくれた。
 この新聞記者は誰から私の病気の情報を得たのか、私は尋ねなかったが、たしかに私はこの直前に心臓の手術をしていた。それも、蜷川幸雄が舞台稽古中に心筋梗塞の発作に見舞われ、かつぎ込まれたのと同じ東京女子医科大学の病院、蜷川が退院してから、それほど経っていない時である。
 静岡でシアター・オリンピックス開催の準備をしていた1997年、蜷川幸雄が心筋梗塞で入院したとの新聞報道に触れた。私はどんな病気か知りたいと、心臓病についての医学書を手にした。そして、自分も検査をしてみる必要性があると思い、静岡で病院に行った。すぐに手術が必要だと医者に言われ、ビックリ。
 当時の静岡県は舞台芸術活動のための組織を設立し、シアター・オリンピックスという世界的な演劇祭を開催しようと、巨費を投じていくつかの劇場の建設をしていた。その組織と演劇祭の中心にいる私に倒れられては大変だと、静岡県知事が女子医科大学の理事長に直接電話、即座に入院ということになった。
 むろん、私の手術は心筋梗塞の発作が起こったからではない。激しい運動中に軽い発作の症状はあったが、まだ心筋の梗塞にまでは至ってはいなかったから、蜷川の手術とは違っていたと思う。ただ、心筋梗塞の発作が起こったら、数時間後には心臓の機能は停止するような血管の状態だったらしい。この血管の異常の発見の後、すぐに静岡から東京に移動し、一週間ほど女子医科大学の病室で安静にして手術を待機、髪の毛を洗う動きすら、用心深くするように指示された。
 この病院で、私にとっては不思議としか言いようのない出会いが起こったのである。私を手術する外科医も、手術後の経過を診察する内科医も、蜷川と同じ医者、病室すら同じだったのである。
 心臓には大動脈の根元から冠動脈と呼ばれる二本の血管が、左右に枝分かれして走っている。さらに、左の冠動脈は二本に枝分かれする。この左の冠動脈は心臓の筋肉に必要な酸素と栄養の大部分を血液として供給している。左の冠動脈が枝分かれする直前の主幹部が詰まれば、生命の危険をもたらす。私の左冠動脈の主幹部はすでに70%以上も詰まっていた。二本の別の血管を心臓につなぐ手術が必要だとの診断。新しく血液の流れる道を作らなければならないと説明された。そして、鎖骨の下の二本の動脈を胸からはがして、心臓の血管につないだ。
 手術後、問診の時に内科の医者に言われる。大きな発作が起こる前に、よく気が付いて検査をしましたね。蜷川も寝ながら眺め続けたであろう天井を見ながら、蜷川のオカゲで命拾いをしたな、と思ったりした。
 私はめったに他の演出家の舞台評は書かない。しかし、若い頃の蜷川の舞台については、三本の批評を書いている。蜷川が初めて演出した「現代人劇場」の舞台(1969年)、「現代人劇場」を退団し、若い仲間と結成した劇団「桜社」の舞台(1973年)、「桜社」を解散した後の東宝株式会社プロデュースによる舞台(1978年)である。
 これらの劇評の中でも、特に日生劇場で上演された「王女メディア」のそれは、私の蜷川演出の舞台に対する感じ方がよく出ているのものである。それだけではなく、商業演劇の世界に身を移してから晩年に至るまでの活動の仕方、それへの感想としても通じるところがある。大劇場という言葉、あるいは大きな空間への対し方を、芸能界と見なして、いま読んでも私には違和感はない。少し長くなるが、蜷川と私との関係にとっては大切な一文なので引用してみる。
 「蜷川演出の舞台に接するのは久しぶりである。平幹二朗と辻村ジュサブローの衣裳が頑張っていた舞台で、それなりに楽しかったが、蜷川の演出ということに限っていえば、これまでよりも刺激をうけることが少なかった。<中略>ただ、それほどの刺激はうけなかったが、日生劇場という大空間をとにもかくにも埋めることに成功したのは、やはり蜷川の力量だと、あらためて感心した事実はつけ加えておきたい。商業演劇畑、あるいは大劇場での蜷川の活躍を、そのことじたいでとやかくいう人たちがいるが、そういう点ではむしろ、私は蜷川に声援をおくるものの一人である。現在の日本の演劇状況では、作家とちがって、演出家はそれほど作品発表の場にめぐまれているわけではない。
 作家は商業雑誌に戯曲を掲載したり、理念的にも相容れない劇団や劇場に台本を提供してもとやかくいわれないのに、演出家が少しでもそういうことをすると云々されるのは、不公平この上もない。それだけ派手にみえるということがあるからだろうが、演出家の仕事は、活字のように後世にのこるということもなく、その場かぎりで消えていくものである。それに体力を必要とする仕事だから、力をふるえるときがあったら、どんな場所であろうと、全力をつくしてとりくんでみるのは結構なことではないか。問題はただただ舞台のできぐあいにかかっている。
 実際のところ、大劇場空間をそれなりに使いこなしうる演出家は、私のみるところ、蜷川幸雄と寺山修司ぐらいしかいないのである。大きな空間に、今のところそれほど演出意欲をそそられない私としては、大いに頑張ってもらいたいと思う。ただ蜷川幸雄には、貧しい内面より華やかな外面のほうがいいというような、相対的な評価で舞台そのものを支持させてしまうようなところがあって、残念だといえばいえる。華やかな外面が内面の豊かさというようなことと背反しないような舞台づくりの方法をさがして、もう少し苦しんでもいいのではないかというような気もするのである。
 しかしこれも、空間を攻撃的に埋めつくすことを演出術の武器として習得してしまい、またそのことによって、私にとっても世間にとっても、その存在理由を確固としてもっている演出家蜷川幸雄に対しては、今さらいうべきことではないかもしれないが、それでもなお、今回の『王女メディア』をみても、そういう蜷川の演出に一片の不満を感じるわけで、その点について書いてみようと思う」
 原稿用紙20枚にも及ぶこの劇評が掲載されたのは「新劇」という雑誌、1978年のことである(この一文は「演劇論 騙りの地平」(1980年、白水社刊)に所収されている)。この書き出しの後は、具体的な舞台の分析、彼が舞台上にずっと存在させ続けた「月」とは何なのか、これまでの演劇における月の役割に言及しながら、その疑問の原因を分析し追究していく。
 今になってみると、あまりの文明論的なマジメサに呆れるほどのものだが、この力の入ったマジメサは、他人の舞台についての私の文章としては唯一のものではなかろうかと思う。当時、蜷川も私もまだ40代、寺山修司も生存していた。この一文の最後は次のように書かれている。
 「どうしてこういうことがおこるのか。それはやはり冒頭にのべたように、蜷川演出が空間を埋めるという技術を基本的な演出の習い性としてしまったところにあると思えてならない。そういう性向が現場的に回転してゆくとき、作品の本質や、舞台に登場するものに対する論理的意味づけを素通りし、すべてを現場的実感性に収斂させてしまうためである。
 むろん、要はおもしろければよいのだし、そういうことは往々、論理的思考によるより現場的実感によって保証されることなのだが、しかし実感によって保証されたものでも、論理的な検証を拒むものではない。むしろ、現場的実感にささえられたおもしろさほど、論理的な検証の多様さに耐えうることが多いはずである。おそらく、蜷川の演出感覚からすれば、日生劇場の空間に立てかけられた城壁の上部は、空白としてしか感じられないものであった。<中略>
 蜷川演出は絶え間なく流される抒情的な音楽によっても特徴的だが、この月も、視覚の側からの空間の表情づけとして、彼の音楽の使い方と等価に存在したとみなしてよいと思う。視覚的単調さからくる心理的空腹感の現場的な代償物であったということでもある。それは量的な要請としての月であり、とりたてて月である必要のない月であったということでもある。だから、私には月がなかったほうが、たとえ単調な冷たさを免れえないとしても、むしろ城壁の垂直性が単なる形容的な状況設定としての装置ではなくなり、そこに住まい、生活するということが、大地の上にいることを意味するだけではなく、天空の下にいることをも意味する両義的な場所のような感じになり、『王女メディア』全体の出来上がりを世話物的な色彩から、もう少し硬質なものに救っただろうと思える。空白とは、想像力を刺激する余白、孤独な空間にもなりうるのだという視点の欠如、これが私の蜷川演出に対する変わらぬ不満ということになろう」
 私が生きた現代演劇の世界で、人格的にもっとも親しみを感じていたのは、寺山修司と蜷川幸雄の二人である。この二人は何よりも人間的に正直だったからである。他人に対する自分の感情の表出の仕方がフェアだった。また、日本の狭隘な演劇界を越えて、世界演劇の水準に参入しようと戦ったから、同志的な親愛感があった。ただ、蜷川幸雄の場合は寺山と比べると、その知的な面での苦闘の痕跡が、日本の演劇界に正確に伝えられなかったと思う。その原因の大半は、蜷川の仕事の周辺にいた演劇関係者、とりわけ学者や評論家やジャーナリストの人間的な志しの低さからくる発言に起因していたと感じる。それは今でも、彼の死によって、改めて語り出されているこれらの人々の言説に表れているだろう。
 私はそれらの人々、蜷川の名声に寄り添うことによって、演劇界を権力的に生き延びようとした人たちにたいして、不快な感情を隠すことをしなかったから、その反動として、その人たちの反撥を買ったことは承知している。そして、その人たちの言動が、あたかも私と蜷川が不和であるかのような認識を演劇人に与えたのである。
 蜷川は寺山や私のように、演劇論的な文章はそれほど書かなかった。その彼が珍しく朝日新聞に長文の文章を書いた。2003年の初頭のことである。自分が影響された3人の演劇人の本について率直に語ったのである。その中に私の著作も登場する。対談やインタビューで私について語ったのを目にすることはあったが、自らの文章での発言は、私の記憶するかぎり、この文章が唯一のものである。その要旨を原文から抜粋する。
 「一九六八年五月に刊行された『特権的肉体論』をそのなかに含む『腰巻お仙』(現代思潮社)を読み終えたとき、ぼくは俳優をやめようと決めた。<中略>唐十郎さんの、この一冊の本によって、ぼくは俳優をやめ、演出家になろうと決心した。ぼくは新しい劇団をつくった。演出の勉強をしたことのないぼくが、演出家になることを選択した。一冊の本の力はほんとうに恐ろしい。
 一九七一年にピーター・ブルックの『なにもない空間』(晶文選書)が出版された。退廃演劇、神聖演劇、野生演劇、直接演劇と四つの項目に分類して語られる演劇論は、彼の演出のように新鮮だった。ぼくらは既に彼の「真夏の夜の夢」の舞台をみていた。しかし、ぼくがもっとも大きな影響をうけた演劇に関する本は、一九七三年に出版された鈴木忠志さんの演劇論集『内角の和』(而立書房)だった。
 演劇の現場を生きている者だけが語ることのできる日本の演劇の根源的な問題を、『内角の和』は明晰な論理と鋭い分析で激しく語っていた。それはまるで白熱する炎だった。
 ぼくは唐十郎さんと鈴木忠志さんの本を、自分の演劇を照射するときの光源としてきた。ぼくは同時代の演劇人のすぐれた劇言語に触発され、多くのことを学んできた。今、二冊の本を手にとると、かすかに戦場の硝煙の匂いがするといったら、甘美に語りすぎているだろうか」
 この一文を目にした時、私は少し驚いた。蜷川は彼と同じように、私が心臓の手術をしたことを知って、手術の先輩として、私を励まさなければと思ったのではないかと想像したぐらいである。
 蜷川とは私が静岡県舞台芸術センターの芸術総監督に就任してからは、めったに会うことはなかったが、手術後しばらくしてから、一度だけさいたま芸術劇場で会ったことがある。彼は私に聞いた。スズキさんは持病はあるの。私は答えた。トクニ、ナイ。そのうちドット、クルカモヨ。彼は心筋梗塞の発作が起こった時の辛さを説明してくれた。この時の私は蜷川にウソを言ったという実感はない。劇場のロビーで気楽に話すような話題ではないと感じただけである。いずれは不思議な縁について、話す時はくるからと思ったのである。
 蜷川とは遠く離れていたが、私に対する優しさは届いていた。私が静岡県舞台芸術センターの総監督を退任した時には、これからは埼玉の劇場で演出作品の上演をしないかと誘いをうけた。この時すでに、彼はさいたま芸術劇場の芸術監督に就任していた。これは実現しなかったが、有り難いことではあった。今になってみると、東京女子医科大学の病室の天井を、同じように眺めていたこと、その時に何を考え、感じていたのかを共有できなかったことを悔やんでいる。
 蜷川の盛大な告別式の中継映像を見て、少し蜷川がカワイソウニ思えた。弔辞を読んだのがすべて、彼の演出した舞台に登場した俳優たちだけ。若い俳優は弔辞を読みながら泣いたりしている。コンナハズデハナイノニ、コレデハ、マルデ、葬式が芸能界のテレビ向け宣伝番組になってしまっているではないか。そして、蜷川は稽古の時に怒ると灰皿を投げるなどということが、美談としてアナウンサーから何度も語られる。死んだらホントウニ、遠くへ行ってしまったと、寂しく感じた。
 寺山修司も蜷川幸雄も、私より人生の過ごし方は器用だった。演劇以外の多様なジャンルに進出する時の、彼らのエネルギーの使い方を羨ましいと思ったことはある。そう考えれば、蜷川の葬式を見てカワイソウニと感じたのは、私の不器用な人生の狭さが、しからしめるところかもしれない。晩年の蜷川を思えば、これで本望だったのかもしれない。
 しばらく前に、東京で活躍する知人の女優から電話があった。電話をしては失礼かと思っていたという。私が元気でいるかを、聞かなければならない気持ちだったからだそうである。私は大声で、ゲンキダヨ! と言った。チョット、間を置いてから女優が言った。コマッタワネー。彼女は私が長生きすると、周囲の人たちが苦労すると思ったのか、私自身がこれから、困ることになると思ったのか。いずれにしろ、まだしばらくは死にそうもない。誰も困らないような手立てはしておかなくてはならないとは思うのである。 

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