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新・帰ってきた日本

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SCOT ブログ

August,12,2018

8月12日 新しい経験

 一昨日、私の訓練を学ぶために、32人の演劇人が世界15の国から到着。今月の初頭からすでに、私の舞台に出演する16人のインドネシア人、7人の中国人、2人の韓国人が滞在していたから、一挙に外国人が増えた感じである。その数はSCOT劇団員の総数を越える。
 今年は日本とインドネシアの国交樹立60周年、中国との平和友好条約締結40周年にあたる。そのためばかりではないが、例年に比べてアジア人の参加者が多い。訓練参加者の中にも、アジア人が10人ほどいるし、サマー・シーズンが開幕すれば、アジア諸国からドッと観客が押し寄せてくる。そればかりではなく、来年に開催するシアター・オリンピックスの国際委員や参加団体の演出家が、ギリシャ、ロシア、中国、インド、ポーランド、イタリア、メキシコ、ドイツなどから来村するから、今年の夏の利賀村は、世界の演劇人の一大交流センターのような様相を呈するかもしれない。
 来年のサンクトペテルブルクとの共同のシアター・オリンピックス、その準備も急速に進み出した。すでに決定された25演目の日程調整に入っている。新設する宿舎や稽古場の工事も、チャクチャクと進んでいる。この施設整備は、富山県、南砺市、富山県の経済界の財政支援によるところが大きい。しかし、それにもまして有り難かったのは、創価学会が百瀬川沿いの我が家に隣接する土地9,300平方メートルを、舞台芸術振興のためにと無償で寄付してくれたことである。これによって、難航していた施設建設の土地の目安が、一挙に解決した。感謝である。
 SCOTサマー・シーズンの観劇申し込みも順調で、すでに第一週の主要な演目は満員。第二週も僅かの客席を残すばかりである。観客の皆様の応援があっての我々の活動だから、ナニヨリモ、アリガタイ! 今年で数え年80歳になったが、もう少しはガンバラナケレバ、という気持ちになる。
 今夏のSCOTの新作は一つだが、まったく新しい経験をさせてもらっていることがある。「ディオニュソス」である。この作品の初演の舞台は東京の岩波ホール、今は亡きホールの支配人高野悦子さんのプロデュースによって1978年に形になったもの。その時の題名は原作どおりの「バッコスの信女」、それを「ディオニュソス」と改訂して上演したのが1990年、水戸芸術館のオープニングの時である。いずれもSCOTの俳優だけで出来上がったものではない。主演の役者はSCOT以外の人が多かった。初期には能役者やアメリカの俳優がディオニュソスやペンテウスやアガウエを演じている。
 今回の「ディオニュソス」の舞台はそのことが更に徹底されている。出演俳優15人のうちSCOTの俳優は一人だけ、残りは外国人、しかも中国人一人を除いてはすべてインドネシアの俳優である。
 人種によって俳優を区分けすると、舞台上では3カ国語が話されると、日本人は常識的に思うのが通常だが、それがまったく違うのである。インドネシアは無数の島国が統一されて一つの国になっている。そして、それぞれの島は独自の言葉を使っている。違う島どうしの言葉で話すと、同じインドネシア人といえども話が通じないそうである。
 舞台上には6人の僧侶が登場するが、この俳優たちは、それぞれ異なった島から選抜された。むろん皆が理解できる共通語もあるようだが、インドネシア人の強い要望で、舞台上ではそれぞれの俳優が生まれ育った島の言葉、子供の頃から慣れ親しんだ言葉で会話することになった。俳優たちにとって、そのほうが言葉の意味に深い内容を付与しやすいというのである。私はこの要望を受け入れたので、めずらしいことが起こった。同じ国の人たちでありながら、出演者も通訳も誰ひとり、すべての言葉が理解できない事態になったのである。
 むろん私は、どんなインドネシア語も分かる訳ではない。なんだか違うリズム、違う音色の音が発せられているのを感じるだけである。彼らは同じ人種だから、顔立ちも身のこなし方も似通っている。それがまったく違う言葉をつぎつぎと発するのを目のあたりにするのは、今までにない経験であった。
 この舞台は利賀村での公演後、ジョグジャカルタにある世界遺産、プランバナン寺院の前に創られた野外劇場で公演する。場所も場所だが、私にとってインドネシアは初めての国だから心配することはある。しかし、俳優たちが私の演技訓練を実に良く身につけてくれたので、舞台のことでは何一つ不安はなく楽しみである。 

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July,28,2018

7月28日 人間の冬景色

 人間には人それぞれに、なにか大切で重大なことがあるらしい。このことを人生の事実として受け入れ、それに驚きを持つこと、これを前提に演劇というものは成り立っている。と言うより、人それぞれの中に大切で重大な思いが密かに存在していることを発見し、それを社会的背景に関連づけて浮き上がらせること、これがギリシャの古代から現代にいたるまで、人類が演劇という表現行為のうちに託してきた期待である、と言った方がよいかもしれない。これまで戯曲として書き付けられ、舞台から語り継がれてきた言葉の群れは、その集積と見なすこともできる。実際のところ、世界的に上演され、有名になっている人物の殆どは、密かな思いを激しく抱いた人たち、犯罪者か狂人か詐欺師であり、なぜその人たちがそのようになっていったのかを、大切で重大な秘密を暴くように描いているのである。
 医者という職業に従事しながら、多くの小説と戯曲を残したロシア人チェーホフは、ギリシャ悲劇やシェイクスピアの描いた人物たちより、身近に存在するように思える人間にも、激しく密かな思いが存在していることに驚いた方がよいと教えてくれた作家である。彼に「六号室」という作品がある。精神病院に閉じ込められ、またそこに関わる人たちの生態が、事細かに描写されている。その中に被害妄想狂の人物が登場するのだが、チェーホフは次のように書く。
 「見るからに不仕合わせなその顔は、戦いとたえざる恐怖にさいなまれた魂を、鏡のように映し出している。なるほどその渋面は奇妙で病的だが、深い真摯な苦悩によって、顔にきざみ込まれたこまかい皺は、聡明で知的な感じを与え、その眼には、暖かい、すこやかな輝きがある」そして、その男の行動は、次のように診断される。
 「彼はなにか非常に重大なことを話したいらしいのだが、誰ひとり聞いてもくれなければ、理解してもくれまいと考えるのであろう。もどかしそうに頭を振って、再び歩きつづける。しかしやがて、話したいという欲求が一切の考えに打ち勝って、彼はせきを切ったように激しく情熱的に話しだす。その話しはうわごとのようにとりとめがなくて、熱病的で、発作的で、時どきわけがわからなくなるが、その代わり、言葉にも声にも何か非常にすばらしい調子が感じられる。彼が話し出すと、彼の中に狂人と正気の人間がいるのがはっきりとわかる」
 今年のSCOTサマー・シーズンの新作「津軽海峡冬景色」のシチュエーションは精神病院である。チェーホフの「六号室」の前記の文章に刺激されて創ったものである。むろん、世界は病院であるとして、殆どの舞台を創ってきた私である。マタマタ、全面的な車椅子の出演になってしまった。密かに託された狂気じみた大切な思いは、行動のバランスを支える車椅子に乗って展開する。彼らの主張音の多くはチェーホフに依っているが、舞台の背景を形作る心情の主調音は、日本の流行歌に表されるそれである。
 「忍び寄るあの人の面影は、もう深い雪の中に埋もれてしまいました。北の海がかすんで見えます。おだやかさを失った、荒れる波をよけながら、かもめたちが鳴いています、今の私を知っているかのように。もう戻りません、久しぶりに見る、津軽海峡冬景色」
 この歌の主人公は、上野発の夜行列車に乗り、雪の青森駅に降りる。そして、青函連絡船で北へ帰る。彼女は言う。北へ帰る人たちは誰も無口で、海鳴りの音だけを聴いていた、と。ここには無口な人たちの後ろ姿が、密かに生きられた情熱的な言葉を発していることが歌われている。その感じを、チェーホフの「六号室」の光景に重ねあわせてみた。
 はたして上手くいったかどうか、観客の皆さんの、反応や如何に、の心境である。
 

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December,28,2017

12月28日 「劇的Ⅱ」の映像

 吉祥寺シアターでの「北国の春」、「サド侯爵夫人」の公演を24日に終え、劇団員全員が26日に利賀に戻る。昨日は猛吹雪の中での忘年会、劇団は今日の朝から休暇に入った。
 来年は1月16日から利賀での稽古を開始するが、その前日の15日に東京で初顔合わせ。早稲田大学の大隈講堂に集合して、早大演劇博物館主催の「劇的なるものをめぐってⅡ」の稽古映像を見る。私は映写の前に、この作品について渡辺保と対談をすることになっている。観客数1,000人だが、申し込みは既に満員とのこと。
 この作品の初演は1970年、奇しくも三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊でクーデターを呼びかけ割腹した年である。私は早稲田大学裏の麻雀屋で、その時のニュース映像を見た。まさか後年、私の演出した彼の戯曲の舞台「サド侯爵夫人」が劇団SCOTの代表作のように見なされるなどとは、マッタク、不思議な巡り合わせである。
 この「劇的なるものをめぐってⅡ」の映像は稽古風景のものである。2年前、演劇博物館が女優の渡辺美佐子から、同じ時期の稽古風景を記録した映像を寄贈されたらしい。演劇博物館から、貴重な映像なので映写会をしたい、と申し出があったが一度は断った経緯がある。
 演劇博物館は本番の映像だから良いのではと言い張ったが、この作品には公演本番の記録映像は存在しない。渡辺美佐子はどうしてこの映像を手に入れたのか、しかも私の所有しているものとは異なっていた。今や綺麗にプリントをし直すこともできないフィルムのもの、当時の一時期にだけ発売された旧いカメラで撮影されたもので、映像は場面によって不鮮明、音声もカメラに付属したマイクでのものと思われ不明瞭な所がある。正確ではないかもしれないが、早稲田大学の学生グループが、五日間ほど稽古を見学しながらカメラを回していた記憶があるから、その人たちから流出したものかもしれない。この作品の初演時の観客の反応については、以前のブログ「イノチガケ」に書いたことがある。
 今日、この約50年前の舞台映像を改めて見たが、マズ使用されていた音楽に驚く。サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」の会話の冒頭場面に流れる音はチンドン屋の曲、最近の私の舞台でお馴染みのチンドン屋。それに都はるみの歌があるかと思えば、幕切れの鶴屋南北の殺しの場面は、任侠ものの流行歌「男の裏町」をジャズ風に編曲したものである。ナンダカ、チットモ、カワッテイナイ、のである。しかも、この舞台の主題曲として流れるのは、「むらさき小唄」の演奏、その歌詞は「流す涙がお芝居ならば、なんの苦労もあるまいに……」、映画「雪之丞変化」の主題歌である。自分で言うのも少し、オカシイかもしれないが、若さに任せたメチャクチャな演出だとはいえ、当時の人生観と演劇観がそれなりの理屈で表明されてはいた。
 しかし、この映像をチョット見ただけでは、一般の人だけではなく、今の演劇人にも、ナニガ、ナンダカ、ワカラナイ、とは思う。ましてや稽古のそれである。ソコデ、私の年来の友人であり、演劇評論家としてもっとも信頼する渡辺保の声に耳を貸すことになる。彼は折節に言っていたのである。
 映像は未来永劫に残ってしまうし、この舞台を実際に見た人も少なくなっているのだから、映像を公開してチャント解説をした方が、イイヨ。私は昔の映像を見るのは、イツモ、恥ずかしいのだが、渡辺保がそばにいてくれると言うので、今回は安心して演劇博物館の申し出を了承した次第なのである。もちろん私の所有していた映像でである。
 言い訳なのか、宣伝なのか、ともかくこの経緯を記録しておこうとしたのか、ナンダカ、年の暮れに似合わないブログになってしまった。 

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November,26,2017

11月26日 シアター・オリンピックス・利賀

 今年の夏、SCOTサマー・シーズンの幕開きに、シアター・オリンピックスの国際委員が集まった。その折に、2019年の8月から9月にかけて、九回目のシアター・オリンピックスを利賀村で、ということになった。むろん、これは私が言い出したことである。
 2019年というのは、今に到るまでのシアター・オリンピックス開催を、陰で支えた斉藤郁子が亡くなって七回忌にあたる。日本では故人を偲ぶための重要な年だから、私は斉藤の功績を称えるためにも、利賀村でのシアター・オリンピックスの開催はどうだろうかと提案してみたのだが、参会者全員が積極的に賛成した。その場には同席していなかったが、アメリカの委員ロバート・ウィルソンも、私の報告にすぐに返事をしてきた。
 “ I think the idea to honor Ms. Saito is a great one and I would be honored to participate in the 2019 program. Fingers crossed my schedule will allow me to come.”
 斉藤郁子が世界の演劇人から愛され尊敬されていたことを改めて感じさせられる。提案時の私の心づもりでは、国際委員の作品だけの小規模なことを考えていたのだが、委員たちと話すうちに規模は膨れ上がり、利賀村でのオリンピックスには世界各国から25作品が参加する予定になってしまった。ナニセ、トガムラ、私の来村時には1,500人だった人口も、もはや数百人しか住んでいない。オマケニ、今年は地滑りもあり、劇場の在る地域、百瀬地区への道路は遮断され停電まで起きている。規模が膨らむのは嬉しくないことはないが、その嬉しさに反比例するように私の心配も、フクランデイクのである。ソノウエニ、更に骨の折れそうなことが起こった。私は今月ロシアのサンクトペテルブルクへ行って、プーチン大統領に会ったのである。
 シアター・オリンピックスの創設者の一人であるロシアの委員、ユーリ・リュビーモフが亡くなって、その後継者としてのロシアの委員は、サンクトペテルブルクの由緒ある国立劇場の芸術総監督ヴァレリー・フォーキンがなった。その彼が同じ年に、サンクトペテルブルクでもシアター・オリンピックスを開催したいと言い出したのである。
 利賀村で開催するからといって反対する理由はない。いつでも、どこでも、この催しが実現するなら、ソレハ、ハッピー、これが芸術家の自主事業としての、シアター・オリンピックスの態度である。タダ、イツモ、物心両面で応援をしてくれる国や自治体が存在しなければ実現できない催しでもあった。
 ヴァレリー・フォーキンにはある思惑があった。自らが芸術監督となるサンクトペテルブルクのオリンピックスを、第三回のモスクワ大会の規模に対抗できるように、プーチン大統領の積極的な承認を取り付け、この事業を権威づけたいというものである。むろん、その結果として、ロシアの文化省とサンクトペテルブルク市政府から、オリンピックスの開催費用を捻出したいと考えていたのは言うまでもないだろう。
 そこで彼は、シアター・オリンピックス国際委員会の委員長と委員の一人である私がプーチン大統領に会って、オリンピックスをサンクトペテルブルクで開催することが、いかに大切であり素晴らしいことであるかを説明するように求めた。私たち二人はオリンピックスの創設者である。新しく加わった委員であるフォーキンの助けになるならばと、私は吉祥寺公演の稽古を抜け出し、ロシアへ行ったのである。
 私はオリンピックスの委員長、ギリシャの演出家テオドロス・テルゾプロス、アレクサンドリンスキー劇場の芸術総監督で演出家のヴァレリー・フォーキンと一緒に、11月17日プーチン大統領に会った。私たちの要望を聞いた後、大統領は即座に大臣や秘書官、幾人かの外国の要人の同席する前で、承知したと言った。私は退席する際に、2001年のモスクワでのオリンピックスの時に、ユーリ・リュビーモフやロバート・ウィルソンと共にクレムリンに招かれ、一時間ほど懇談したことを話した。そして、フォーキンと共にサンクトペテルブルクでのオリンピックス開催にガンバルと言った。大統領は私に向かって親指を立てて言った。長く付き合うことは良いことだ。
 2019年のシアター・オリンピックスは、利賀村とサンクトペテルブルクの二カ所で二度、第九回と第十回が行われることになるのか、それとも第九回を合同で開催することになるのか、これからの話し合いによる。ヴァレリー・フォーキンは合同で第九回を実現するのが良いと考えている。私もそれしかないだろうと思うのだが、一方はプーチン大統領の生まれ故郷の大都会、他方はその存在の消滅を予測されている典型的な山奥の過疎地、この取り合わせは奇抜で私の好みにもあって面白いが、さて、ロシア政府が前面に出てくる事業のようになったら、日本政府は?などと考え、気楽な気持ちだけではいられない心境にもなっている。
 しかし、世界が注目する一国の大統領にまで、直接に会って応援を頼んでしまった事柄である。いずれにしろ一生懸命にやらねばならない。斉藤郁子はあの世で何を感じるだろうか。今はただ、シアター・オリンピックス創設時の精神を失わずに、この大事業が上手くいって、斉藤が喜んでくれることを願っている。 

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