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新・帰ってきた日本

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SCOT ブログ

August,12,2017

8月12日 亡霊と宇宙人

 今年の「SCOTサマー・シーズン」には、ひとつだけ新作を発表することにした。去年、一昨年に続くチンドン屋の登場する舞台である。
 他人だと思っていた人間たちが、自分の身体にくっついてしまう。そして、いつの間にか自分の身体の中にまで入ってしまい、自分の意志とは関係なく言葉まで喋り出す。都会の保険会社に勤めていた青年、独りぼっちで部屋に閉じこもる人間に起こった現象である。
 劇中人物の一人は言う。「誰よりも独りぼっちを望んだ君が、いちばん独りぼっちではなかった。私たちは君に呼ばれたのだ」と。そして更に、「もし君が自分の言葉を奪われたと感じたとしたなら、それは君がそうありたいと思ったからだ」と断言するのである。
 この「北国の春」という戯曲は、「からたち日記由来」と同時期、40年ほど前に書かれた鹿沢信夫の作品である。「からたち日記由来」と違って、チンドン屋の語る物語りはなく、演奏は後景にしりぞき、チンドン屋夫婦と息子との関係がドラマとして前面に展開するから、主人公の青年の置かれた精神的身体的状況を透かして浮き上がってくる社会的なメッセージは強い。
 一個の人格として時間的空間的に自立して存在しているという社会的な実感を持ち得ない人間、言い換えれば、青年のアイデンティティー・クライシスの有り様を描いているということになろうか。むろん、上演にあたっては、現在の私の視点から若干の戯曲の改訂はしている。
 もうずいぶんと昔のことだが、知り合いの婦人に言われたことがある。近ごろ息子が口をきかなくなった。いつも自分の部屋に閉じこもって、コンピューターに向かい合っている。食事の時でも会話は少なく、何を尋ねてもハッキリした返答がないから、宇宙人と向かい合っているかのように感じるのだそうである。
 宇宙人とは大袈裟な気もして、私は内心でホホエンダが、私も近ごろの若者と話す時にこれに近いことを感じることはある。まさしく「北国の春」症候群に出会っているのだと思う。
 この息子はとっくに自分の母親を殺しているのである。母親が気づかないだけではなかろうか。もしこの事実を母親が正確に理解したとしたら、母親にとってはどのような心の人生が待ち受けているのであろうか。現代社会に引き付けて考えれば、ここに核家族高齢化社会の大問題があるような気もする。
 より良い人生への確かな約束がなされているわけでもない社会、インターネットやスマートフォンから発せられる現在形の情報の奔流に呑み込まれている現代の若者、しかしそれこそが、人生を充実して生きていると感じるようになってしまった若者にとっては、眼前の母親とは過去から派生してくる人生の桎梏であるかもしれない。というより母親こそ過去という亡霊、宇宙人と亡霊との距離はもう埋まらない。鹿沢信夫の戯曲を深読みすれば、こんなことにでもなろうかと演出してみた。
 千昌夫が歌い大ヒットした「北国の春」、鹿沢信夫はこの昭和の歌謡曲が、たとえ日本人がすべて宇宙人になってしまったとしても、亡霊としての過去を懐かしく想い浮かべる時の契機になってくれることを願っていたのかもしれない。「北国の春」の一番の歌詞を記しておく。
 白樺、青空、南風。こぶし咲くあの丘、北国のああ北国の春、季節が都会ではわからないだろうと、届いたおふくろの、小さな包み、あの故郷へ、帰ろかな、帰ろかな。 

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December,25,2016

12月25日 変化への予兆

 最後の劇団総会で、来年の活動の日程が事務局より示される。承知はしていたものの、渡されたペーパーを見て、個人として既に活躍している演劇人が来村するだけではなく、来年は世界の多くの教育機関からも、学生が大量に利賀村に送り込まれることを改めて確認する。私が気楽に請け負ってのことだから責任は私にもあるのだが、これでは劇団員も忙しく、ダイジョウブカ、という思いも胸をよぎる。どれだけの活動が、ここに書かれているとおりに実現したか、その成果はいかなるものだったかを、来年の終わりにチェックしやすいように記録しておこうと思う。むろん、このスケジュールを失念した時の用心のためにでもある。
 
1月10日(火) 鈴木演出3作品の稽古開始
 
2月18日(土)~3月26日(日) 「青い鳥」(メーテルリンク作)の稽古と公演
<富山県内の中高校生と外国の演劇人が共同で創作する舞台。演出:マティア・セバスティアン>
 
4月8日(土)~21日(金) 鈴木演劇塾・中国(40名)
<北京郊外の古北水鎮で、中国全土から応募した演劇人を教える>
 
4月20日(木)~5月7日(日)
日本・インドネシア共同企画事業「ディオニュソス」(鈴木忠志演出)
<国際交流基金との3年間の共催事業。インドネシアの俳優17名が利賀に滞在して、日本、中国の俳優も参加し、第1期の稽古を開始>
 
5月7日(日)~11日(木) 利賀・鈴木演劇塾 YaleNUS大学(シンガポール・20名)
<シンガポール国立大学とアメリカのイェール大学が共同で創設した大学の学生が受講>
 
5月12日(金)~26日(金) 利賀・鈴木演劇塾 中国国立中央戯劇学院(27名)
<北京にある中国で唯一の国立舞台芸術大学。演技クラスの2年生全員と担当の先生が受講と訓練>
 
5月29日(月)~6月5日(月) 劇団SITI創立25周年記念・アメリカ公演
<アメリカの演出家アン・ボガートと鈴木が共同創設した劇団の本拠地・ニューヨーク郊外のサラトガでの公演(「トロイアの女」)>
 
6月19日(月)~7月1日(土) 中国国立国家大劇院創立10周年記念事業公演
<記念事業である国際演劇祭の一環として招待され、2作品・「トロイアの女」、「ディオニュソス」を上演。中国、韓国の俳優もSCOTのメンバーに加わる>
 
8月14日(月)~8月28日(月) 利賀・鈴木演劇塾
<世界15カ国の演劇人約30名と、デンマーク国立演劇大学から数名が参加>
 
8月25日(金)~9月3日(日) SCOTサマー・シーズン
<鈴木演出4作品の上演と、ロシア、中国、韓国の作品を招聘>
 
9月8日(金)~24日(日) SCOT中国公演
<万里の長城の麓の野外劇場と上海郊外の烏鎮で「シラノ・ド・ベルジュラック」を上演>
 
12月12日(火)~25日(月) SCOT吉祥寺公演
<鈴木演出の2作品を上演予定>
 
 この活動内容を子細に点検してみると、劇団SCOTと利賀村の存在が、来年あたりから大きく変化していく予兆のようなものを感じる。
 明日は劇団の忘年会。これで今年の活動はすべて終了する。不思議なことに、雪は殆ど積もっていない。来年は1月10日から活動開始。私も久し振りに、年末年始に利賀村を離れるが、その間に利賀村は豪雪に見舞われているかもしれない。 

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December,01,2016

12月1日 利賀村への道

 今年の後半は外国との縁で忙しかった。私の演劇生活の中でも久しぶりの年であった。SCOTサマー・シーズンが終了してすぐの、9月から10月にかけて、「エレクトラ」、「カチカチ山」、「トロイアの女」の公演のために、中国・ロシア・グルジア・ポーランドなどの国を廻った。それだけではなく4月には、北京郊外のリゾート地である古北水鎮、万里の長城の麓にある街の劇場に「鈴木演劇塾」を開設した。中国全土から40人ほどの演劇人を募集し、私の演劇観を話し、俳優訓練を実施。陳向宏さんという著名な経済人の応援で実現した。政治的には日本とギクシャクしているこの時期の中国に、日本人の私塾とも言うべき教室ができるとは、想像もつかなかったことである。
 この演劇塾は毎年開催することになっているが、陳さんは私がいつでも滞在できるように、野外劇場の脇に宿舎も建設してくれている。不思議と言えば不思議としか言いようのない出会いである。
 しかし、今までの演劇人生を振り返ってみると、新しく飛躍的な活動はいつも、予測もしない人との出会いがきっかけとなっている。早稲田小劇場や利賀村での活動も、芸術文化界とは縁のない人と出会い、その人たちの応援によって大きく展開した。親しい人たちから時々、あなたは人に恵まれていると言われるが、そうかもしれない。
 陳さんはこの古北水鎮の演劇塾が劇場と共に、世界的に注目されるようになることを願っている。私の力量でそれがどこまでできるか、ともかく経済人でありながら、演劇活動にまで財力を投入し、支援を惜しまない陳さんの厚意には、真剣に応えなければとは感じている。私の祖先が大変な迷惑をかけた国でのことである。
 11月には上海と広州の演劇祭にも招待され、「カチカチ山」と「リア王」の公演をした。上海の公演は、静安区人民政府が始めた演劇祭に招待されてのこと。開演前の舞台で区長たちとオープニングの儀式を行う。開演直前の同じ舞台で、儀礼的なことが行われ、それに立ち会うのは初めての経験だった。
 しかし今年の活動の中で末長く記憶に残るのは、ポーランドのブロツワフで開催された第七回シアター・オリンピックス、そのオープニングで「トロイアの女」を公演したことではないかと思う。この舞台のヨーロッパ公演は約30年ぶりである。
 シアター・オリンピックスはアメリカのロバート・ウィルソン、ギリシャのテオドロス・テルゾプロス、ロシアのユーリ・リュビーモフ、ドイツのハイナー・ミュラー、ブラジルのアントネス・フィーリョなど、世界的に活躍していた演劇人十数人と1993年に創った企画委員会である。
 なにがしかの組織的な実体があるわけではない。いろいろな国の政府や自治体、あるいは文化機関に呼びかけて、委員会主導の演劇祭やシンポジウムを開催してもらおうというものである。すでに物故した人もいるが、この20年の間には新しい委員も加わり存続してきた。今回のシアター・オリンピックスは、ポーランドから新しく委員として加わった、演出家ヤロスロウ・フレットが中心になり、ブロツワフ市の支援で実現したものである。
 「トロイアの女」の舞台は今の時代に相応しい内容だと好評だった。エウリピデスのこの作品は2000年以上も前に書かれたものだが、戦争と難民に悩み続ける現在のヨーロッパの人たちにはナマナマシク、身近に感じられる作品だったようである。ギリシャ軍に滅ぼされたトロイアの国は消滅する。男はことごとく殺され、生き残った女たちが奴隷としてギリシャに連れていかれるこの物語を、私は日本の第二次世界大戦の敗戦の悲惨な状況に重ねあわせて演出した。それが未だ、ヨーロッパの現在の状況への刺激的なメッセージ性を持てていたことは嬉しかった。時間と空間の違いを超えて、戦争によって不幸な境遇に陥る人間の悲惨さは普遍的である。
 このシアター・オリンピックスが創設された当時も、アメリカとソ連の冷戦が終結したのもつかの間、多くの人たちの平和への期待に反して、各地で民族紛争が多発した時期である。特に東欧の多民族国家は悲惨な紛争状態になった。民族浄化などという言葉が、人殺しや婦女暴行の正当化のために横行したのである。
 そのような民族的憎悪による紛争が世界に拡散しないように、演劇人として力になれることがあるのではないか、そんな願いがあって、心ある世界の演劇人がギリシャのデルフォイに集まり、シアター・オリンピックスという委員会を立ち上げたのである。その初心を改めて、ヨーロッパの地で感じられたのは感激だった。今回のシアター・オリンピックスの芸術監督を務めてくれたフレットに感謝である。
 それにしても、舞台の芸術的な質が高くなければ、上記のような実感が我が身に訪れることもない。その点では、劇団員の能力に支えられてのことである。よくここまで、劇団は芸術水準を保持できてきたと思う。
 実際のところ、如何に集団を維持するのか、この課題にかかずらわり、悪戦苦闘していた時期は長い。むろん今だってその解決を手にして、安定した心持ちでいるわけではないが、この課題に直面していた初期の頃に比べれば、幾分かは気楽になったとは言える。
 私が直面した課題には、二つの側面があった。一つは集団の経済的な基盤の確立、もう一つは集団の芸術水準の保持である。この二つの展望がないと、どんな御託を並べようと、利賀村での活動は消滅する。この危機感、というか恐怖に襲われていた時期はケッコウ長かった。
 集団という言葉を使うと、抽象的な印象を感じる人も多いだろうが、実感は違う。劇団は同志としての芸術集団である。毎日毎日、数時間も顔を突き合わせて行動するから、強い個人としての顔を持った人間、その人たちの具体的な数になる。それほどの人数であるわけではないが、その個人の経済基盤と芸術的な能力の水準を、どのレベルに設定し維持していけるのか、その展望とそれににじり寄っていく方法を手にしないと、利賀村という特殊な環境を選んだ活動の意味は、一種の思いつきによるタワゴトに終わる。そして、演劇という表現形式によって自分以外の他者に、ジカニ結び付くことは二度とできなくなる。集団固有の共同性は霧散し、その存在の社会的な意義は消えるのである。
 世界は日本だけではない、日本は東京だけではない、この利賀村で世界に出会う。1982年、当時の日本社会の東京一極集中の傾向に、大きくタンカをきってみせた私の言葉である。このスローガンとも言える言葉に促された行為が、劇団員を巻き込んだ無責任なそれに転化して、後悔に責められることになるのではないか。そのために注ぎ込んだ心身のエネルギーが、津波のように反転してきて、我が身に襲いかかってくるのではないか。これが集団のリーダーを望んで引き受けた当時の恐怖感の実態だった。
 利賀村での活動を開始したのは1976年、私が36歳の時である。東京のある新聞は「鈴木忠志・突然の発狂」と書いた。今思えば確かに発狂だったかもしれない。しかし、この発狂は演劇を通して正気にたどり着くための、私にとっての唯一の道だったと、懐かしく思えるようにはなったのである。大袈裟とも言えるこのスローガンの言葉は、40年を経た今でも、私の心に生きつづけている。むしろ、ますます新鮮になっているかもしれない。
 昭和9年、今から80年以上も前に、谷崎潤一郎は「東京をおもう」という一文で次のような発言をしている。
 「諸君のうちにはまだ東京を見たことのない青年男女が定めし少くないことであろう。しかし諸君は、小説家やジャーナリストの筆先に迷って徒らに帝都の華美に憧れてはならない。われわれの国の固有の伝統と文明とは、東京よりも却って諸君の郷土において発見される。東京にあるものは根底の浅い外来の文化か、たかだか三百年来の江戸趣味の残滓に過ぎない。東京は西洋人に見せるための玄関であって、我が帝国を今日あらしめた偉大な力は、諸君の郷土に存するのだ。私は何故地方の人が一にも二にも東京を慕い、偏えに帝都の風を学ばんとするのか、その理由を解するに苦しむ。例えば大阪のような大都会の青年男女でさえ東京というと何か非常にいい所のように思い、何事も東京の方が上だと考えて、自分たちの言語や習慣を恥じるような傾きがあるのは、彼等をそういう風に卑下させたのは、誰の罪か。近頃の為政家はしばしば農村の荒廃を憂え、地方の振興を口にするが、現今の如く帝都の外観を壮大にし、諸般の設備を首府に集中して、田舎を衰徴させた一半の責任は、彼等政治家にあるのではないか。私は地方の父兄たちが子弟を東京へ留学させる利害についても、多大の疑問を持っている。なるほど東京には立派な教授や学校があり、いろいろの教育機関が完備しているであろう。が、前途有為の青年を駆って第二世第三世の東京人たらしめ、小利口で猪口才で影の薄いオッチョコチョイたらしめることは如何であろうか。返す返すも東京は消費者の都、享楽主義者の都であって、覇気に富む男子の志を伸ばす土地柄でない」
 私には現在の日本について「我が帝国を今日あらしめた偉大な力」などと言う自負はとても持てないが、ここで言われている日本という国、なかんずく東京への認識はほとんど同じである。そして改めて、第二次世界大戦の敗戦によって、国土の大半が焦土と化したにもかかわらず、日本は何も変わっていなかったのだということに驚くのである。谷崎潤一郎が当時の中央公論にこの一文を書いたのは、私が生まれる以前のことなのである。 

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June,26,2016

6月26日 若い広場

 「アワレなるものからアッパレなるものへ、いかに、誰がアッパレなのかを、もっと明確にしたいということが、鈴木忠志の狙いでもあるんじゃないでしょうかね。現代、アッパレなるものが少ないですよね。あいまいな文化が多いなかで、明確で、これはアッパレであると、皆が拍手したがる空間性を狙っているんじゃないかと思います。それは成功しているんじゃないですかね」
 最近、偶然に見つけ出されたNHKのドキュメンタリー番組、利賀村で活動を開始して5年目、1980年に放映の「若い広場」の中で語られた言葉である。アワレとはある状況や状態に、心が哀しく動かされる時だけではなく、しみじみと感心したりする心の言葉、対象を賛嘆する時にも使われてきた。ナニカシラ、対象に身を入れ、心を寄せる優しい人間の様を想い起こさせるが、アッパレとは、このアワレの心情をさらに強めた言葉、感嘆する対象に出会った時の感動の心から発せられるものだとされている。アワレよりは、対象に対するホガラカサを感じさせる語感がある。
 この言葉の主は、若い時の松岡正剛である。タバコをフカシながら、私の活動をどう見ているかを語っていた。今時、アワレとかアッパレとか、こんな言葉を日常で口にする人はなかなか居ない。使い方がむつかしい。ヘタに使われたら、聞かされる方が、シラケルのである。
 こういう種類の言葉をサリゲナク使って、聞く人の意表をつくだけではなく、対象そのものの在り方を分かったような気にさせるのが、松岡正剛の才能である。言葉のパフォーマンス上手とも言うべきこの才能には、20代の頃からたびたび感心させられてきた。
 しかし、こういう言葉が自分の仕事に対して実際に使われると、ウレシクないことはないが、やはりテレルのである。そしてむしろ、マコトニ、ウマイコトヲ、イウ、と松岡正剛その人に感心させられてしまう。ココガ、松岡正剛が文化教祖になっていったユエンではないかと思う。彼には1977年、私の初期の代表作「劇的なるものをめぐってⅡ」の台本や演出ノート、上演舞台への国内外の批評、私についての彼自身が書いた論稿などを収録した、精力的で珍しいスタイルの本を編集・出版してもらっている。
 このドキュメンタリーの中では、写真家篠山紀信もコメントを求められて語っている。「演劇をやる空間からも創りあげて、そこでやるっていうことは、一番の理想じゃないですかね、演劇をする人にとってはね。10年前に見たのも、それは早稲田小劇場の自分たちの小屋だったんだけれど、今の方がより完成度が高いし、ちょっと言葉がないほどヘトヘトって感じですね」
 松岡正剛は私が利賀村で活動しだした狙い、その社会的意義の文脈を踏まえて語ってくれているが、篠山紀信は私の舞台そのものの出来具合の方から、その印象を語ってくれている。今から36年前、私が初めて建築家磯崎新と協力して創った、合掌造りの劇場のオープニング公演の時である。この時の出し物は、「劇的なるものをめぐってⅡ」と「トロイアの女」。30年以上も経って、再びこの二人の言葉に触れ、大きな励ましを与えられたことを思い出した。そして、今でもやはり、この言葉には励まされる。
 このドキュメンタリー映像には、野外劇場も大きな合掌造りの劇場・新利賀山房もまだ存在していない。野外劇場が建設された場所には、小さな池があるだけ。のどかにも、私はその池で釣りなどをしている。同じく磯崎新の設計になる野外劇場と、その背後にある大きな池は、1982年から始まった世界演劇祭「利賀フェスティバル」のために建設・造成された。
 当然のことながら、私も磯崎新もインタビューされているが、前記の二人と殆ど同年齢の40歳前後、四人とも顔も語り方も若い。むろん映像には、当時の劇団員も殆ど登場する。しかし、現在でも活躍しているのは、私の舞台の主役を演じてきた蔦森皓祐と竹森陽一、加藤雅治、塩原充知、それに私の五人だけ、それ以外の人たちはこの世を去るか、劇団を辞めて音信不通の人が多い。映像の劇団紹介の画面には字幕で、現在の劇団員は38名とある。隔世の感がするのである。
 このドキュメンタリーの中で、驚いた場面がある。というより、知ってはいたのだが、現在では見ることのできない光景に改めて出会い、やはり深い感慨に誘われた。
 突然、カメラが階段をなめるように上がっていくと、男優たちの寝室になる。そこは合掌造りの二階、わずかな隙間を残し、畳み三枚ずつが敷かれて、その上に布団がズラリ。周囲には日本酒の一升瓶がゴロゴロ、開かれたままの週刊誌には若いアイドルらしき女の大きな写真、それを見下ろすように胡座をくんで酒を飲んでいる男。俳優の何人かはカメラマンなどにオカマイナク、布団に寝転んだまま。熟睡している俳優もいる。
 こんな映像がヨク撮れたものだと感心しながら、私はツブヤイタ。マルデ、タコベヤ、ミタイダナ。見終ってから若い女優たちに、タコベヤという言葉を知っているかと聞いてみたが、誰もその意味は知らなかった。
 蛸部屋とは労働者を監禁状態にして働かせていた飯場=宿舎のことである。この呼称は、タコツボに入った蛸のように、飯場に入るとなかなか抜け出せない現場のイメージからきたらしい。第二次世界大戦前の工事現場には多く存在していたという。私もその実際を見たわけではないが、日本の戦前の労働環境を描いた映画などで、宿舎の雑魚寝の光景には接していた。
 現在の劇団員の宿舎は個室、洗面所にはウォシュレットの便器もある。各部屋の防音もしっかりしている。100人は泊まれるゲストハウスもある。活動開始当時は一つだった劇場も今では六つ、場所自体の風景も一変している。映像で見るそれとはまったく違っているのである。まさしくコレモ隔世の感。40年という活動時間の蓄積である。
 この映像に接して、劇団はこの山の中で、日本社会の激しい変化に対応しつつ、よくここまで生き延びてこれたと思った。そして改めて私は、家庭の事情や自分の才能への疑問から退団していった人たち、志し半ばで死んでいった人たち、ともかく利賀村の活動に少しでも関わってくれた人たちのすべてに対して、アッパレだったと言いたい気持ちがした。もちろん、このような映像を残してくれた、当時のNHKの関係者にも感謝するのである。 

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