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April,30,2010

鈴木忠志 オペラを語る

 私は、オペラの曲は好きなものがいくつかあるんですけれども、実際にオペラを見にいくことは最近はあまりないんですね。特に新しい演出のオペラというのは見ない。私は照明も衣装も装置も、必要があれば自分でデザインを考える演出家ですので、舞台の統一感がないオペラほどイライラするものはないんですよ。たとえば、バレエや能や歌舞伎も台本は退屈ですけどね、一応そこには総合的な舞台芸術としての統一感があるから見ていられる。演者の動き、音楽、衣装、装置などの一体感があるんですが、最近のオペラは音楽と身体の動き、あるいは演出のアイディアが分離していて、できそこないの空間が多い。それを新しい演出などと称していることがあるんですよね。不思議なのは、私の考えでは、オペラこそ音楽を軸にした総合的舞台芸術ですから、歌い方がそうであるように身体の動きも人工的に洗練された高度な抽象性をもたないといけない。ところが、演技はどんどん日常に近づいて、私などが批判してきたナチュラリズム、自然主義演劇の動きをしていて、普通の演劇よりもだらしない視覚空間になることが多い。客席でそれを見ないように目をつぶると眠くなって寝てしまう(笑)。それで、これまで演出を断ってきたし、劇場へも行かないことにしたんです。隣の人に迷惑をかけないようにと思うと、おのずと足が遠ざかる。
 
 これねぇ、ストーリーは一時代前の日本人好みの純愛物語で、ばかばかしいんですが、なんといってもヴェルディの曲がいいし、こんなたわいのない話をもとにして、こんな音楽をつくったヴェルディという人の集中力の異常さに興味をそそられるのです。私は小説でも戯曲でも、作品そのものではなく、その作品をとおして感じた作者という人間の精神状態に興味をもって舞台化しようとするんです。ですから、今回の主人公もヴェルディです。そのヴェルディが、フィクションとしての憧れの女性をつくりあげていくときの手つきを舞台化しています。ヴェルディの場合、フィクションとしての女性は音の中に閉じ込められて成り立っている。その集中力に舞台芸術家としての私の集中力が空間に結実し、拮抗するかどうかですよね。これは技術の問題ではなくて、それぞれに違った時代を生きて、フィクションというものに生命を賭けている芸術家同士の対決の仕方の問題なんですけどね。この作品でも、“世界は病院である”という私の舞台の主調音は浮き上がるようにしているつもりです。
2009年12月、オペラ「椿姫」公演パンフレットより

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