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SUZUKI's Works ⁄ 鈴木忠志構成・演出作品

11月24日 やくざ

  私は前回のブログで、<精神のやくざ>という言葉遣いをした。やくざとは通常、役に立たないもの、まともでないこと、その状態を形容して使われる言葉である。物事がうまくない、悪い様を表す否定語である。しかし今ではこの言葉は、人間そのものを意味するように使われることが多い。博打打ちや暴力団員、要するにやくざ者、法に背いたり犯したりして生きている人間を意味する。
 世間一般を成り立たせているルール、これを心の内では認めず、むしろそのルールを破ってでも、自分固有のルールで生きたいとする人、それが芸術家というものだと、三島由紀夫は「サド侯爵夫人」の主人公の口を借りて主張している。要するに、心に於けるやくざだというのである。実際のサド侯爵や三島由紀夫は、心の内でのルール破りだけでは満足せず、行動でもやくざ者を実践した。そこがこの二人を特異な存在にしている理由だが、その真意を丁寧に解説して見せたのが、「サド侯爵夫人」という作品である。
 若い時には痴漢で変態、年をとったら粗大ゴミ、こういう男の本性にも、この世間を成り立たせるために必要な、立派な精神上の存在理由がある、これをムキになって主張する、それもフィクションとして創りだされた女の言説として主張するところが、三島由紀夫らしい真面目さである。その理屈は傾聴に値しない訳ではないが、心身ともにやくざ者たらんとした人間にとって、この理屈はスコシ、ムナシカッタネ、チカラガ、ハイリスギチャッタネ、とこっそり声をかけて、励ましたくなるようなところもある。やくざは、そんなに喋らなくても、と思うのである。
 宗教学者の山折哲雄に「美空ひばりと日本人」という著作がある。この本の中で彼は、人間の魅力は、知性と羞じらいを含んだ謙虚<含羞性>、それに一発勝負をあてこむ大胆な冒険根性<ヤクザ性>のバランスにあるとして、次のように書く。
 知性だけの人間に魅力がないように、含羞性だけの人間には個性が感じられない。しかしそこにひとたびヤクザ性という酵母を投入し、知性と含羞性を撹拌するとき、突然そこに溌剌たる人間像が浮かびあがってくるのである。
 三島由紀夫の喜びそうな一文である。そしてさらに彼は、ヤクザ性とは、冒険、度胸、男らしさ、反常識、在野性などの価値観と結びつく言葉であり、日本人がヤクザという観念に伝統的に託してきた夢のようなイメージであり、この観念が今日ほど軽視され忘れ去られている時代もない、と言うのである。
 私もこの見解には賛成だが、さりとて現在の日本に、こんな観念にとり憑かれて行動を起こす人間がいたら、チョット、カンベンシテクダサイ、である。身近な感覚で言えば、石原慎太郎の言動にたいするそれに近い。彼は現在まさしく、このヤクザ性の観念を錦の旗にして、政界に再び殴り込みをかけようとしているようにみえる。ソノ、ココロイキヤ、ヨシ、としても、ある時から権力に身を寄せて、80歳まで生き延びた人間が、再び精神のやくざたらんとして振る舞うと、いかにズレタ、タンカを切ることになるか、寂しい感じもするのである。
 支那(中国)になめられ、米国のめかけで甘んじてきた日本を、美しいしたたかな国に仕立て直さなければ、死んでも死にきれない(日本経済新聞2012年11月22日朝刊)。
 支那だとか、めかけだとか、美しいだとか、したたかだとか、こういう言葉に、今だ実態を付与しようと檄を飛ばす石原慎太郎に触れると、三島由紀夫の真面目さを懐かしく思い出すのである。そしてつくづく、若くして自ら死んでくれて良かったと思える。
 オセッカイだとは思うが、橋下徹もやさしく言ってみたらどうだろう。オジイチャン、もう役者になった方が良かったのに、舞台ではもっと過激に、タンカが切れるもん、とでも。 


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