Works鈴木忠志構成・演出作品

リア王

原作
ウィリアム・シェイクスピア
初演
1984年 利賀山房

演出ノート

世界は病院である

 世界あるいは地球上は病院で、その中に人間は住んでいるのではないか、私は、この視点から、多くの舞台を創ってきた。ということは、多くの戯曲作家は人間は病人であるという視点から、人間を観察し、理解し、それを戯曲という形式の中に表現してきたのだ、と私が見做していることになる。戯曲作家の中には、それは困った考えだという人もいるかもしれないが、優れた劇作家の作品はこういう視点からの解釈やその舞台化を拒まないというのが、私の信念になっている。それゆえ、ここ数年の私の演出作品は舞台上のシチュエーションがほとんど病院になっている。それも単なる病院ではなく、精神病院である。
 このシェイクスピアの『リア王』を素材にして演出した舞台も例外ではない。主人公は家族の絆が崩壊し、病院の中で孤独のうちに死を待つしかない老人である。その老人がどのような過去を生きたのか、その老人の回想と幻想という形式をかりて、シェイクスピアの『リア王』を舞台化したのがこの作品である。舞台の進行、あるいは物語の展開をこういう形式にしたのには理由がある。シェイクスピアの描いた作品『リア王』の中から、老人の孤独感とそれゆえに精神的な平衡、あるいは平静さを失う人間の弱さや、惨めさに焦点をあて、それは時代や民族の生活習慣を越えて普遍的な事実なのだということを強く主張しようとしたためである。つまり、イングランドの王リアという時代と空間において特殊に規定された人がすさまじい孤独と狂気を生きたのではなく、老人というものが、いつの時代でも、どこの国でも、リア王と同じような孤独と狂気の人生を生きる可能性があることを示そうとした私の演出上の作戦である。そのために、シェイクスピアの原作そのものの一面だけが極度に強調され、私流に編集されている。そのことをして、これはシェイクスピアではないと言われればその通りだが、優れた文学作品がいつもそうであるように、時代や民族のちがいを越えて、人に人生を考えるための糧をあたえつづけたという意味では、その偉大さは十分に敬意が払われたと了解してもらう以外にはないだろう。
 さきほど私は、人間はすべからく病院にいると言った。人は病院である以上、医者や看護婦がいると考えるだろうし、病人の病気は恢復の希望があるだろうと考えるだろう。しかし、世界あるいは地球全体が病院だと見做す視点においては、この考えは成り立たない。看護婦も病人そのものであるかもしれないのである。そして病気をなおしてくれる医者という存在は、存在すらしていないかもしれない。
 では、医者も看護婦もいないとすれば、だれが病人かすら分からないではないか、という疑問が生ずる。まったくその通りである。しかし、人間は医者や看護婦の存在や助けを借りないでも、自ら率先して自分を含めた人間は病人なのではないかという疑いを持ち続けることはできる。私はこの疑いを持つ人たちが優れた芸術家として存在してきたし、なぜその疑いを持ったのかを公に発表したのが作品と呼ばれるものだと考えている。
 私も私自身が病人ではないかと疑っている。そして、その原因はなにに起因しているかを絶えず考え続けている。その考察あるいは分析の結果のひとつが、シェイクスピアの『リア王』に刺激を受けて創ったこの『リア王』である。
 世界あるいは地球全体が病院である以上、快癒の希望はないかもしれない。しかし、いったい人間はどういう精神上の病気にかかっているのかを解明することは、それが努力として虚しいことになるとしても、やはり現代を芸術家(創造者)として生きる人間に課せられた責務だと信じている。