SCOT SUZUKI's Works / 鈴木忠志の作品

三人姉妹 / Three Sisters

原作 アントン・チェーホフ Anton Chekhov
初演 1984年 利賀山房

演出ノート
チェーホフの女たち
 高校時代にチェーホフにとりつかれたから、大学に入るとすぐ、チェーホフの戯曲を上演する劇団に入った。その劇団は、当時の大方の新劇団と同じでモスクワ芸術座を模範とし、チェーホフ解釈はほとんどエルミーロフあたりに依拠していたから、それまでに私がいだいていたチェーホフから受けた印象、特に戯曲の登場人物の女性解釈に関しては、ずいぶんとかけ離れていた。チェーホフの女主人公たちがそれぞれに魅力を持っているということを否定はしないが、ただやみくもに素敵な女性として肯定されたり、我々の身近には存在しないタイプの女性であるかのように見なす傾向には、ちょっとついていけなかった。要するに、ある人物を魅力的だと感じるその仕方が、私と彼らの間では違っているのだが、それは今でも、新劇界の女優たちと話すと感じることがある。
 私にしてみれば、『三人姉妹』のマーシャなどは、日活ロマンポルノに出てくるような団地妻のはしりとしての魅力以上を持ってはいない。しかし、彼女たちにとっては、マーシャは退屈で怠惰な日常を激しく嫌悪する情熱の自由を持った女性であるかのように見えるのには、いささか驚くのである。亭主があまりにも愚かで情けなく描かれているからといって、文学的なポーズのあの不倫の悩みが美化されてはたまらない。ともかく私は、三人姉妹というのは最も好きになれないタイプの女たちで、どちらかというと気味が悪いのである。
 たとえば、幕切れ近くに三人の姉妹が寄り添って、有名な長ゼリフを言う場面がある。姉妹三人に、しかも二人は独身で、白樺を背景に寄り添って、「生きていきましょうよ」などとうたいあげられて、気味が悪いと思わない人はちょっとおかしいのではないかと思うのである。『三人姉妹』という戯曲に出てくる男たちは、すべからくどうしようもない男たちであるが、それ以上にこの三人の姉妹のくだらなさは勝るとも劣らないのではあるまいか。女房の浮気に傷つきながらおどけているクルィギンや、自己中心的なナターシャのほうが、まだ人間としての悲しさを感じてよいのである。
 ではどうして、多くの人が三人姉妹を素敵な女性だと思い込んでいたのか、日本の場合やはりそれは、チェーホフの神格化と、ヨーロッパというものに対する劣等感がそうさせていたに違いないと思うのである。それにまた、1960年代前半くらいまで、日本の男は女というものに対して精神的な夢を描いており、それがことさら、ヨーロッパ人だとロマンチックな思い入れの対象になったのではないかとも考えられる。近頃の若い人たちはおそらくそんなことはないだろう。やはり私と同じように、『三人姉妹』の女たちにシラケルか、気味が悪いと感じるのではないだろうか。
 ともかく、チェーホフ戯曲の登場人物たちはすべからく滑稽で楽しい。特に女性は愚かさを特徴としており、その点に焦点をあてないと舞台上に生きた人間像が出てこない、というのが私の見解である。マーシャは実家に戻ってまで、妻子のある男ヴェルシーニンの声を聞きながら、暗闇でオナニーをしていたに違いないのである。イリーナはそれがよくわかるから、刺激され発情し混乱し、ともかくはやくこの環境から逃れなければいけないと、馬鹿な男爵との結婚を決意したのである。
 昨年、こういう演出で『三人姉妹』を上演したら、私と同年輩でかつてチェーホフを演じたこともある多くの女性たちから、「マーシャがオナニーをしているというのは最高ね。若い頃、どうしてあんな馬鹿な女を素敵だと思っていたのかしら。」と言われて、私はこう答えたのである。「男たちがあんまり女性を神秘的に考えるから、あなたたちもその気になってしまったのでしょう。あなたたちはいい誤解の時代を女として過ごしたんですよ。」

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