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新・帰ってきた日本

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SCOT ブログ

April,11,2019

4月11日 無念

 ドイツ人俳優、ゲッツ・アルグスが死んだ。突然の訃報である。利賀村での第9回シアター・オリンピックスの開幕公演として、彼主演の「リア王」を予定していたが、ついにあの素晴らしい演技に触れることができなくなった。
 彼は私の仕事だけではなく、私が知り合った世界のどの演劇人よりも利賀村を愛してくれた。自分の出演する舞台がなくても毎年、SCOTサマー・シーズンには来てくれていた。自分で勝手に日本語の名刺を作り、名前の上の肩書きにはSCOTの劇団員と書き込むような茶目っ気のある俳優だった。
 彼と初めて出会ったのは、2002年デュッセルドルフである。デュッセルドルフ市の公立劇場シャウシュピールハウスの制作で、4人の演出家が異なったギリシャ悲劇をそれぞれに演出することになった。3人はドイツ人以外の演出家が選ばれた。その一人が私で、「オイディプス王」を演出した。その時に主役のオイディプスを演じてもらったのが、最初の出会いである。この舞台はドイツでの公演の後、ギリシャのエピダウロス古代劇場や日本の新国立劇場、もちろん利賀村の野外劇場でも上演している。
 彼は東ドイツの出身、東西ドイツ統一の後に、西ドイツのデュッセルドルフやミュンヘンで活躍していた。大きな身体と強く迫力のある音声の持ち主で、舞台の上での存在感はギリシャ悲劇やシェイクスピアなどの古典戯曲の主役にピッタリ、舞台に登場するやいなやすぐに、観客を旧い時代の雰囲気に誘う見事な力量があった。そういう点では、世界広しと言えども、なかなか得がたい存在だったと思う。
 毎度のことだが、一緒に仕事をした外国の演劇人の突然の死に触れると、形容のしがたい寂しさを感じる。死の有り様も葬儀の様子も詳しく知ることができない。ただ、もう二度と会えないという事実だけが、突然に目の前に現れる。いよいよ会えなくなるかもしれないという、心の準備がなされないからであろうか。
 <仏語>に正念とか無念という言葉がある。両方とも執着や雑念を振り払った心の状態を表す言葉だが、正念と違って無念には、正念を失った口惜しい心、不本意で残念がる心の動きを表す一面もある。
 ゲッツ・アルグスの死を、突然に聞かされた今の気持ちを言い表すとしたら、無念! という一語に尽きる。そして遠くから、ただただ冥福を祈るのみである。 

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April,05,2019

4月5日 誕生祝い

 いつも使っている食堂ボルカノは、シアター・オリンピックスのために改装している。しばらくの間、劇団員の食事の場所は八角型の本部棟に移る。富山県の経済界やカリフォルニア大学などの寄付で建てたもの。友人の磯崎新の設計、八角型の広間は天井が高く、明かり窓が巡らされている。室内から大自然の光の変化を感じられる心地良さがある。通常は図書の閲覧や映画の鑑賞、来訪者の接待に使用している。
 早起きをしてしまい、少し早めに朝食に行く。ビュッフェ用のテーブルには、まだ料理がない。準備中の団員に急ぐことはないよと言ったが、気をきかせた女優がコーヒーを持ってくる。さらに気をまわしたのか、通称ダルマと呼んでいる石油ストーブに手をかざしている私の斜め横に座る。私は別に退屈しているわけではない。
 イヨイヨ、迫ってきましたね。ソウ、80歳。今年はどうしますかね。何もしなくていいんじゃないか。生きている時間がそれだけ短くなったという目印だから、メデタイわけじゃない。オレハ、多勢で英語のあの唄を歌われると、トリハダガタツ。外国のレストランなんかで歌われると、恥ずかしくて逃げ出したくなるよ。ソウハ、イカナイデショウ。劇団員以外の人たちもナニカ持ってきますよ。イツモ、甘いものばかりで迷惑している。自分では食えないから、ケッキョク、お前たちが食うことになる。ハルカはそれを期待している。アイツはチョコレートにはメガナイ。
 演劇以外にチュウさんの老後の楽しみはナンデスカ。ナニヲするんですか。何年も一緒にいるのに、この女優はトンデモナイことを聞く。私が演劇を楽しみでやっていると思っているらしい。私はブッキラボーに答える。ショベルカー。創価学会に寄付してもらった土地に、二つ建物は建ったけど、まだ整地されていない所は多いからな。ケッコウ、時間はかかるんだよ。女優は、モウ、ヤメタラという顔をしている。
 昔、田中角栄という総理大臣がいた。小学校を卒業して、しばらく新潟県で土建の仕事をしていた。そのとき従業員仲間に言ったそうだよ。スエズ運河もパナマ運河も我々のような人間が手作業で造った。そのお蔭で地球の交通体系は変わり、全世界の人たちが便利をした。我らは地球を改造する芸術家だと。地形が変わっていくのは、オモシロインダヨ。
 デモ、ソノトシデ、ショベルカー、ツカレルデショウ! 当たり前だ! シカシ、お前のヘタナ演技を見ているよりは疲れないよ。自分の思うように地形は変わるんだから。ソウデスカ、そんなに稽古は疲れますか。この女優は自分のことを言われているのに、一般論にすり替える。稽古ではなく、オマエノ、ヘタナ演技と言ったの、オレハ。少しは良くなっていませんか、最近の私は。この女優は堂々とシブトイ。ナカナカ傷ツカナイ。ソコガ、この女優のトリエ。オレハ、地形を変えるから、オマエハ、ソノ太った体型を変えろ!
 この会話の後しばらくして、会計係のヨシエがやってくる。イマ、使っているのを新品で買うとチョット高いんですけど。少し小型ではダメですよね。ナンノコトダ? ショベルカーのことですけど。リサが80歳のチュウさんの誕生祝いに、ショベルカーを贈りたいと言うんですが。リサとそんな話をしました? トンデモナイ! リサにそんな金があるわけないだろう。
 エエ、ソコナンデス。私にはお金がないから、世界中の女優によびかけて集めたらと、リサが言うんです。コレマタ、堂々とズウズウシイ。ナンデ、女優なんだ。私もそう思ったからリサに聞いたんです。そうしたら、チュウさんの誕生日に、男がナニカ持っていったことはありません、男はケチですから。ソレニ、女優だけで贈った方がチュウさんも、ウキウキと華やいでショベルカーを使える。
 私の知らないところで、妙な会話が進行している。私の老後の道楽のために、世界中の女優に金を出せなどと言えるわけがない。自分で買うから、その話しはナシ、と私は言ったのだが、ヨシエもリサに輪をかけてシツコイ。ご随意ならどうでしょう、観劇料もそうしていますし。観劇料とショベルカーを一緒にするとは、私は呆れる。シアター・オリンピックスも迫っている。いくら私が好きでも、ショベルカーなどやっている暇があるわけがないのである。私は言った。
 もし贈ってくれるなら、葬式の時に香典の代わりに新車を買ったらどうだ。香典は<ご随意に>だからな。そして、生前の鈴木忠志がいちばん<愛したもの>とボディーに書いて、野外劇場の入り口の脇にでも置いといてくれ。 

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March,29,2019

3月29日 集団と文化について

 演劇の舞台が創り出されるためには、まず戯曲の存在があって、演出家や俳優の稽古が始まると一般的には考えられている。そしてその稽古は、戯曲の読み合わせから始まるとされている。劇作家や演出家が俳優たちに読んで聞かせるのである。あるいは、配役された俳優たちによって読み合わされることもある。まず最初に、戯曲作家の作品の思想や言葉の解釈が共有される必要があると考えられているからである。
 その手続きが終わると、演出家の指示に従いながら、俳優たちが立ち稽古と言われる動きをつけた言葉のやりとりをしていく。そして、舞台作品と呼ばれるものが観客の前に登場するのである。
 私の劇団SCOTはこの稽古の手続きをとらない場合が多い。一人の戯曲作家の言語作品=戯曲を舞台化するわけではないからである。新作として昨年に上演した「津軽海峡冬景色」を例にとれば、その違いは歴然である。この舞台は、チェーホフ、ゴーリキー、尾﨑紅葉、阿久悠が歌謡曲のために作詞した言葉などの断片により構成されている。
 むろん、それらの言葉は私が選んだもの。その言葉は個々の俳優に手渡され、一人一人の俳優が動きを付けた独自の稽古をして、しかるべき時に私や他の俳優の前に披瀝され、全員に共有されるものとなる。発声や動きは、私が考えだした訓練方法によって育った俳優たちだから、とんでもない演技が出現することはない。その点は、能や歌舞伎あるいは宝塚などと同じで、持続する集団の強みである。プロデューサーによって集められた一回性の寄せ集め集団とは演技の質が違うのである。
 私の劇団の場合は、初期の稽古段階での俳優の演技は、いずれは全体を構成する言葉や動きの断片として羅列されるだけである。その断片としての演技の場面を、どういう順序で時間の流れの中に織り込んでいくか、俳優が独自に考えてきた演技に、演出的観点から注文をし、修正してもらいながら、統一ある全体を創り出していく。これが演出家である私の仕事になる。言い方を変えれば、稽古とは言葉と動きが合体した一つの上演台本を創り出すための過程ということになる。通常の演劇の成り立ちのように、戯曲は稽古の前提ではなく、稽古の終了の時点で戯曲=台本が完成するのである。
 文化活動に限らず、政治や経済の領域でも、集団は目的を達成するための独自の行動システムを必ず所有している。同じ製品を生産する会社でも、それぞれの行動システムは異なるし、それを企業文化が違うなどという言葉で表現したりする。これは一つの集団が時間をかけて蓄積し、継承している行動の型の違いを表している。そういう点では、私の劇団も訓練を含めた稽古過程が、他の演劇集団のそれとは際立って異なるという意味で、独特の行動型としての文化を創り出していると言えるかもしれない。
 ずいぶん昔だが、動物学者の河合雅雄は、文化というものを面白くわかりやすい視点から解説していた。一匹の猿がイモを水で洗うことを考えつく。その行動を見た他の猿が同じ行動を始め、やがて猿の大部分がイモを洗うようになる。生まれてきた子供も母猿のマネをする。このように集団を構成するメンバーによって分有され、習慣的行動様式として集団に定着し継承されたものが文化だと。
 個人の思いつきや発明が、その人が属する集団に共有され、それが更に一般の人達にも広がっていき、一つの行動の型として学習され定着する。社会生活上で習慣になっている多くの行動も、この経過を経て浸透したものである。もちろん、文化として広く伝播した社会生活上の行動様式も、生活上の必要性や環境に適応するために、強制されて誕生したと見なされるものもある。演劇の世界でこの例が顕著に見られるのは、女形の身体行動である。
 長い間、日本人の生活文化として定着してきたものに、和服という着物がある。この身幅の狭い衣服の故に、日本人の身体行動はかなり不自由になったと見なすことはできるが、その反面、下半身の露出を極度に抑制する日本人独特の優雅な歩行文化を発明できたとする意見もある。内股を密着させ、爪先を内輪にする歩行である。
 この内輪歩きの創始者は江戸時代の歌舞伎役者、中村富十郎だとされている。富十郎の演技から歩行の芸能の伝統は確立されたのみならず、その所作が一般市民にも模倣され、社会的な行動様式として広く定着し継承された。個人が発明した身体行動が、日本社会を特徴づける集団文化にまでなったのである。演劇の力を感じさせる面白い逸話だが、こういう個人の所作や行動の型が、他の個体や集団にまで影響し、社会的な行動様式として定着させる力は、現在では映像の世界に移りつつある。演劇人としては残念なことだが仕方がない。
 かつては社会集団を健全に形成するために中軸的な文化様式として存在した演劇も、今は社会の辺境に位置する存在になった。しかしそれは、逆の視点をも提供している。ネット社会が撒き散らす抗しがたい情報の奔流は、個人を個性化するのではなく孤性化するから、集団性としての文化を新しく創出する力を衰弱させている。演劇はこの社会の傾向に巻き込まれないで、人間の孤性化に歯止めをかけうる集団的文化活動として存在できるのである。
 SCOTが利賀村を拠点に、演劇を通じて蓄積してきた劇団の行動の型は、日本人が創り出した優れた文化的特質のひとつだと、世界の演劇人に影響を与えているし、これからも更にその影響力を増大させたいと願っている。 

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February,24,2019

2月24日 懐かしの公衆電話

 ツイに見つかっちゃいました、お巡りさんに。ソレデ、なんて言われた? ナニヲシテイルンデスカ。ソレデ、なんて答えた。スイマセン、スグデマス。もう少し居たかったんですけどね。
 あの辺りのボックスには、ビラがいっぱいあるから疑われたのかもしれないな。
 ありましたよ、コンバン、オヒマ! マッテルワ! とか、電話番号がゴチックで大きく書いたのが。私が新宿周辺の公衆電話のボックスに、バラマイテイルとでも思ったのかもしれません。
 ソウダナ、怪しまれたのかも。受話器を手にもって、喋っていたんですけどね。やさしいお巡りさんでよかったよ、早く家に帰って寝なさいなんて。
 暮れの12月、深夜の明治通り、タクシーはハシャイデ走っている。バブル全盛期、宴会の季節である。電話ボックスの中でセリフの稽古をする人間など、怪しまれても仕方がない。しかし、この若い劇団員は私に力説する。あすこがイチバン集中できるんです、誰にも迷惑をかけるわけでもないし、深夜なら独占しやすい。ソノウエ、稽古場代も必要ありませんから。私はハゲマス以外にない。ガンバレ、ガンバレ。
 私も夜遅く、有楽町の劇場での稽古が終わり、皇居前の濠のそばで、セリフの発声練習をしたことがある。一人の若い警官が近づいてきた。丸の内署のお巡りさんらしい。その人が言う。静かにしてください。皇居の中の皇宮警察の人に、私が大声を出していると思われますからね。昭和は、ナニカト世相のうるさい時代だったが、のどかな時代でもあった。今なら、テロリストの一味かもと、いくばくかは疑われても仕方がない行為である。
 高山線の八尾駅から利賀村までの道程は約30キロ、道は曲がりくねった坂道の連続である。車に乗っても1時間強はかかった。私が利賀村に来たのは40年以上も前、今と違って道は舗装をしていない。土道でおまけに狭い。冬になれば雪道。山の斜面から落ちてくる雪を避けながら車は走る。
 夜間、この道を一人で帰る心細さといったらなかった。周囲は真っ暗、車のライトに照らされる前方だけが頼りの山道なのである。
 この道の途中に、一つだけ公衆電話のボックスがあった。車が故障したり、道に迷ったりした人のため、要するに緊急の事態の連絡用である。それを見るたびに、わずかながらも安心感と励ましを与えられるのだが、30キロの間にタッタの一つである。モシ、この場所から遠く離れて<ナニカアッタラ>と、かえって不安にさせるところもあった。
 この電話ボックスに誰かが入っていたのを目にしたことはないが、いつも孤独でヒトリボッチの風情だったから、横を通り過ぎるたびに、ガンバレ、ガンバレ、と内心で声援を送っていた。それが平成になって、いつの間にか消え去ってしまったのである。
 もはや時代は携帯電話からスマホへ素早く変化、東京でも、公衆電話を探すのに苦労する時代。東京はどうでもよいとして、私にとってはこの山の電話ボックスが、何の断りもなく消えられたのは不本意だった。ナンダカ、他人と繋がれる唯一の回路を断たれたような、淋しい気分であった。一度も使ったことがないのにである。
 もう少しで平成も終わろうとしている。あなたにとって、平成とはどんな時代でしたかと聞かれたら、ナント、コタエルノカ。山道にひとり佇んでいた公衆電話が突然にいなくなって、孤独を感じた時代とでも。
 私は昭和14年生まれ、今年の6月で80歳になるから、私の人生は昭和50年、平成30年である。ということは、昭和が私の人生の基礎がためをしてくれ、平成がその基礎の上に建物を建ててくれたことになろうか。その基礎の一つは、まぎれもなく公衆電話である。携帯電話がなかった頃の私には、公衆電話はどこでも、いつでも誰かと繋がれるという、励ましを与えてくれるものであった。
 作詞家の阿久悠は平成11年に書いた「昭和恋歌」に触れながら、次のように言う。
 「この歌は次のようなフレーズをくり返しつづける。あああ、あああ、一日一日遠くなる、わたしの時代が遠くなる、そして、あの子も、あのひとも……昭和が夢の時代であったわけではない。悲惨であった。しかし、少なくとも、人間の歴史に景色がよりそっていた」
 昭和には景色があったとは、上手いことをと感心するが、私の昭和時代は、少しも遠くはならない。土中に打ち込まれた基礎は強い。なかなか撤去できないのである。最近ではむしろ、平成の方が遠く薄くなるのではないかという気がしている。
 雑踏の中で、キャバレーやクラブへの通路としても活躍していた公衆電話、殆ど歩く人のいない山道に、雨の日も雪の日も、ヒトリボッチで静かに佇んでいた電話ボックス、このふたつの風景は、まさに昭和の記憶として、今も私には鮮明である。 

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