list

新・帰ってきた日本

2019

2018

2017

2016

2015

2014

2013

2012

2011

2010

SCOT ブログ

February,13,2019

2月13日 思い出の人たち

 ここしばらくの間、私の知人である演劇人の死が伝えられる。知人といっても、昔の知り合いである。最近はよく、その人たちのことが思い出される。報道からのインタビューがあったりしたためもあろうか。特に浅利慶太、加藤剛、市原悦子のことは鮮明である。
 浅利慶太は俳優ではないから、一緒に仕事をしたわけではない。いろんな機会に出会い、会話を交わした時の言葉を思い出すのである。彼はいつも、演劇そのもののことを話すのではなく、演劇を成り立たせる時々の環境について、激しく話題にするのだった。新国立劇場は、コウヤッテ、ツブスベキダ、といった類の気炎である。私は殆どの場合、笑ってやり過ごしたが、芸術文化振興基金の設立をめぐっては、新聞紙上で明確に対立した。むろん彼は否定派、私は擁護派であった。しかし、今になってみると、彼の反対意見には傾聴すべき部分も多い。そのことについては、以前のブログ(「助成制度のこと」)で触れている。
 加藤剛とは恥ずかしながら俳優として共演している。木下順二に「赤い陣羽織」という戯曲がある。女好きの赤い陣羽織を羽織った代官が、村のおやじの女房に言い寄るのだが、オッチョコチョイの子分がその手引きをする。その代官が加藤剛、子分が私だった。
 学生時代のことだが、この公演は東京ではなく、伊豆諸島の一つ、新島で上演した。新島以外ではこの舞台の公演はなかった。いま思えばマコトニ不思議、この公演の目的はただ、新島にミサイルの試射場が建設されることに反対する島民の応援のためのものだったのである。
 偶然に所属した大学の劇団が、学生運動の活動の拠点の一つ、共産党の細胞もあった。部室の棚には、共産党の機関紙「赤旗」が、劇団の党員のために毎朝とどけられていた。昭和の中期、まさに時代である。私が大学2年の時で、加藤剛は3年生であった。オドロイタコトニ、ミサイル試射場設置に反対の活動をする島民のための活動資金を集めようと、池袋駅構内で乗降客にカンパを呼びかけたのである。
 当時の私は自閉症的文学青年、政治オンチ、ミサイル試射場設置反対を訴える信念などあるはずもなく、訴えかけの声は小さい。先輩に叱られメガホンを持たせられた。携帯マイクなどない頃である。タダ、タダ、ハズカシカッタ。その点、加藤剛はマジメな優等生、性格も温厚、こういう劇団の活動の意義も、それなりに納得して行動していたと思う。
 ソレニシテモ、それなりの俳優として初めて観衆にまみえた場所が、東京から船で何時間もかかる離島の新島、それもボスのために女の手引きをするチャチな悪役で、その後テレビで颯爽と大岡越前を演じつづけた加藤剛の子分である。このために私は未だ、山奥の過疎村で、あらぬモウソウやタクラミに、身を託さざるを得ないのか、私の演劇活動の出発点は、マコトニ寂しく不運だった、などと運命の不思議を想う懐かしい思い出である。
 市原悦子との出会いは偶然もイイトコ。私が演劇活動を始めだした頃、彼女は新劇界の中枢劇団ともいうべき、演出家千田是也が率いる俳優座のスターだった。加藤剛も同じ劇団所属である。彼女の演技はエネルギーに満ちあふれていて、若い頃の浅利慶太も高く評価していた。彼の演出する舞台にもいくつか出演しているはずである。当時の私の劇団の主演女優、白石加代子も大のファンで、いつか舞台で共演したいと常日頃に口にしていた。
 その市原悦子は、1971年、劇団内における芸術理念をめぐる指導部の対立が原因で劇団を退団した。そして1974年、私が岩波ホール演劇シリーズの芸術監督になった、最初の演出作品、エウリピデス原作の「トロイアの女」に出演した。能出身の観世寿夫、新劇出身の市原悦子、小劇場出身の白石加代子、三枚看板の競演である。舞台稽古を勘定に入れると、5週間ほども稽古をしたのを思い出す。
 私は当時、稽古のときには必ず剣道の袴を履いた。あるとき私は楽屋で、腰からズボンを真っすぐに床におろし、両足を抜いて袴に着替えた。当然のことながら、ズボンは丸く小さく床に横たわる。そして私はズボンをそのままに、急いで稽古場に行ったのである。しばらくすると、楽屋の方から驚きの声と、ケタタマシイ笑い声が聞こえてくる。何事かと思い戻ると、市原悦子がズボンを指さしながら、私に言ったのである。
 チュウさんが、コンナコト、スルナンテ、ビックリ! そしてまた大声で笑う。こんなことで驚かれたり、笑われたことがないので、私の方もビックリ。私への誤解、ナニカ、私が端正な人間であるかのような、先入観を持っていたらしい。その笑い顔のカワイイコト、私も一緒に笑った。これが一番の市原悦子との思い出である。
 それ以来、脱いだズボンは畳んで椅子に置くことにしている。 

一覧へ

January,27,2019

1月27日 高嶺の月

 今年は雪が少ないと思いきや、昨日あたりから激しく降り出した。久しぶりの寒気が日本全国を覆い、山間部の積雪は猛烈なものになると天気予報は言う。その備えのために、昨日25日は一日中ショベルカーと除雪車で、家の周囲の残雪を池や川に落とした。夢中になっていると少し離れた所に人影、写真を撮っている。ショベルカーの運転席を回転させて見ると、南砺市の市長と職員の二人。夏に開催されるシアター・オリンピックスの市の施設を改装する件で、懇談することになっていたのを思い出す。台所に戻り、一緒に食べる料理の準備を始める。
 50代の市長は食事中もいたって元気、エネルギッシュに腹式呼吸で大声で話すので、イツモ感心。この人は俳優をやっても成功すると内心で思う。タトヘバ、現在の日本の世界情勢の中での在り方を、憂いながら演説する。そして最後に朗々と流行歌「さざんかの宿」を歌う。
 曇りガラスを手でふいて、あなた明日が見えますか、愛しても愛しても、ああ他人の妻…春はいつくるサザンカの宿。この歌は現在、新作の稽古で使っているのだが、他人の妻を<竹島>や<北方領土>だとすれば、流行歌「さざんかの宿」も日韓、日露の関係の歌になり、作品のイメージが広がるなどとフザケタ妄想が湧く。ソレクライ、市長の身体も声も立派、舞台向きなのである。ソレダケデハナク、現職の地方都市の市長が俳優として舞台に登場するのも、政治の世界をホガラカニスル、国会議長あたりも積極的にやったら、オモシロイカモ、などと妄想は昂進。
 今月の22日に、安倍首相とプーチン大統領の会談がモスクワであった。会談終了後、両者は共同の記者発表をした。二人は肝腎の北方領土の帰属問題については具体的に触れることなく、貿易高の拡大とか共同経済活動の推進、平和条約の締結を目指すなどとの発言ばかり。コレデ、日本にもいずれ春が、クルノカナ?
 しかし、私と市長にとっては、春が来るようなスピーチを、プーチン大統領がチラッとしてくれたのである。ロシアと日本では、これまでも人的交流が活発に行われているが、今年はサンクトペテルブルクと富山で、第三国も参加する国際演劇オリンピックを共同で開催する、と述べたのである。
 一昨年、プーチン大統領に面会し、シアター・オリンピックスの日露共同開催を了解してもらった経緯もある。日露合同の記者会見も最近、サンクトペテルブルクと東京でしたばかり。実現に向けての準備は着々と進んでいるので、いずれの日にかプーチン大統領の口からも言及されることがあるかと想定していたが、安倍首相との記者発表の席でなされるとは思ってはいなかった。
 これでロシア側にとっても、日本側にとっても大切な事業であることが、アナウンスされたことになり、私と市長にとっては念願の、利賀村の活動の世界的な認知と、その存在の独自性がますます明確になったことになる。有り難いスピーチではあった。
 分け登る麓の道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな。食卓を挟んで同じ料理を食べながら、市長と私はこの和歌の心境、同じ高嶺の月を望み見る所にまで、お互いにたどり着いて来たのかな、と感じあった一夕であった。 

一覧へ

January,13,2019

1月13日 演劇の力

 今年は元旦に利賀から東京の自宅に帰る。いつもは正月3日まで利賀にいるのだが、1月8日に東京で開かれる第9回シアター・オリンピックスの記者会見の準備もあり、新年早々に利賀を出た。
 昨年の末に、今年行われるシアター・オリンピックスに必要な小規模な宴会や会合も可能な施設を、創価学会から舞台芸術振興のためにと寄付してもらった土地に建てた。12月27日にその建物のお披露目をかねた劇団の忘年会をしたが、参会者の多くから美しい仕上りを褒められる。年末年始は豪雪だとの天気予報もあったので、折角の建物が損傷するといけないと思いながら年を越した。静かな環境で美しい建物と共に新年が始められて、久しぶりに幸せな気分を味わう。
 シアター・オリンピックスの創設は1993年である。場所はアポロンの神殿のある聖地デルフォイ、ギリシャ悲劇に登場する有名な主人公オイディプス王が、自分の過去の謎を解き明かそうと神託を聞きに訪れた山上の小さな街である。そこに世界各国から演出家と劇作家が集まった。今やその大半の人たちは亡くなったり病院で治療中である。創設者8人の中で今年のシアター・オリンピックスに参加するのは、アメリカのロバート・ウィルソン、ギリシャのテオドロス・テルゾプロス、私の三人である。寂しいことだが仕方がない。とりわけ、私にその思いを抱かせるのは、長年にわたって事務局長として<ガンバッタ>斉藤郁子の不在である。
 今年のシアター・オリンピックスは、日本とロシアの初めての二カ国共同開催である。その意義を日本の人々にも広く知ってもらおうと、ギリシャから国際委員長のテオドロス・テルゾプロス、ロシアからは新しく国際委員に加わったアレクサンドリンスキー劇場の芸術総監督ヴァレリー・フォーキンに来てもらった。
 ロシア開催の中心地は人口530万人のサンクトペテルブルク市、利賀村は人口5万人の南砺市に属するとはいえ、500人弱しか居住者のいない山村、この二つの場所が中心になり、<人間とは何か、我々はこれからどんな未来に向かって生きるのか、そのために何が必要とされるのか>の認識を世界に共同で発信する。不思議といえば不思議な出会いだが、こんなことが実現するのも民族や国家の違いを乗り越えて、精神的な連帯をもって活動することを前提とする、演劇がそなえる力の証しである。
 軍事や経済の力は、一国家の力量を世界に誇示することはできる。しかしそれは、他国の人々にとっては、脅威として感じられることの方が多い。実際のところ、軍事力や経済力は当該国家を物質的に豊かにすることに役立ったとはいえ、その力の拡大のために犠牲になり、悲惨な人生を送らざるをえなくなった国家の人々も多いのである。
 今回のシアター・オリンピックスの二カ国による共同開催は、今後も繰り返されると予測される、こうした世界的傾向への芸術活動側からの批判、その実践的な形の一つの在り方であると思っている。

一覧へ

August,12,2018

8月12日 新しい経験

 一昨日、私の訓練を学ぶために、32人の演劇人が世界15の国から到着。今月の初頭からすでに、私の舞台に出演する16人のインドネシア人、7人の中国人、2人の韓国人が滞在していたから、一挙に外国人が増えた感じである。その数はSCOT劇団員の総数を越える。
 今年は日本とインドネシアの国交樹立60周年、中国との平和友好条約締結40周年にあたる。そのためばかりではないが、例年に比べてアジア人の参加者が多い。訓練参加者の中にも、アジア人が10人ほどいるし、サマー・シーズンが開幕すれば、アジア諸国からドッと観客が押し寄せてくる。そればかりではなく、来年に開催するシアター・オリンピックスの国際委員や参加団体の演出家が、ギリシャ、ロシア、中国、インド、ポーランド、イタリア、メキシコ、ドイツなどから来村するから、今年の夏の利賀村は、世界の演劇人の一大交流センターのような様相を呈するかもしれない。
 来年のサンクトペテルブルクとの共同のシアター・オリンピックス、その準備も急速に進み出した。すでに決定された25演目の日程調整に入っている。新設する宿舎や稽古場の工事も、チャクチャクと進んでいる。この施設整備は、富山県、南砺市、富山県の経済界の財政支援によるところが大きい。しかし、それにもまして有り難かったのは、創価学会が百瀬川沿いの我が家に隣接する土地9,300平方メートルを、舞台芸術振興のためにと無償で寄付してくれたことである。これによって、難航していた施設建設の土地の目安が、一挙に解決した。感謝である。
 SCOTサマー・シーズンの観劇申し込みも順調で、すでに第一週の主要な演目は満員。第二週も僅かの客席を残すばかりである。観客の皆様の応援があっての我々の活動だから、ナニヨリモ、アリガタイ! 今年で数え年80歳になったが、もう少しはガンバラナケレバ、という気持ちになる。
 今夏のSCOTの新作は一つだが、まったく新しい経験をさせてもらっていることがある。「ディオニュソス」である。この作品の初演の舞台は東京の岩波ホール、今は亡きホールの支配人高野悦子さんのプロデュースによって1978年に形になったもの。その時の題名は原作どおりの「バッコスの信女」、それを「ディオニュソス」と改訂して上演したのが1990年、水戸芸術館のオープニングの時である。いずれもSCOTの俳優だけで出来上がったものではない。主演の役者はSCOT以外の人が多かった。初期には能役者やアメリカの俳優がディオニュソスやペンテウスやアガウエを演じている。
 今回の「ディオニュソス」の舞台はそのことが更に徹底されている。出演俳優15人のうちSCOTの俳優は一人だけ、残りは外国人、しかも中国人一人を除いてはすべてインドネシアの俳優である。
 人種によって俳優を区分けすると、舞台上では3カ国語が話されると、日本人は常識的に思うのが通常だが、それがまったく違うのである。インドネシアは無数の島国が統一されて一つの国になっている。そして、それぞれの島は独自の言葉を使っている。違う島どうしの言葉で話すと、同じインドネシア人といえども話が通じないそうである。
 舞台上には6人の僧侶が登場するが、この俳優たちは、それぞれ異なった島から選抜された。むろん皆が理解できる共通語もあるようだが、インドネシア人の強い要望で、舞台上ではそれぞれの俳優が生まれ育った島の言葉、子供の頃から慣れ親しんだ言葉で会話することになった。俳優たちにとって、そのほうが言葉の意味に深い内容を付与しやすいというのである。私はこの要望を受け入れたので、めずらしいことが起こった。同じ国の人たちでありながら、出演者も通訳も誰ひとり、すべての言葉が理解できない事態になったのである。
 むろん私は、どんなインドネシア語も分かる訳ではない。なんだか違うリズム、違う音色の音が発せられているのを感じるだけである。彼らは同じ人種だから、顔立ちも身のこなし方も似通っている。それがまったく違う言葉をつぎつぎと発するのを目のあたりにするのは、今までにない経験であった。
 この舞台は利賀村での公演後、ジョグジャカルタにある世界遺産、プランバナン寺院の前に創られた野外劇場で公演する。場所も場所だが、私にとってインドネシアは初めての国だから心配することはある。しかし、俳優たちが私の演技訓練を実に良く身につけてくれたので、舞台のことでは何一つ不安はなく楽しみである。 

一覧へ