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SUZUKI's Works ⁄ 鈴木忠志構成・演出作品

11月22日 哀しさの所在

 明後日は東京に一泊し、翌日に北京に発つ。北京市主催のシアター・オリンピックスの記者発表に出席するため。今回は政府行為なので正装で来るようにとの連絡あり。政府行為という言葉が面白い。今年は利賀村滞在が長かったから、ネクタイをして人前に出るようなことは久しぶりである。
 4日ほど利賀村を離れるが、その間にも劇団員は12月12日から26日まで、吉祥寺シアターで公演する舞台の稽古をしている。「リア王」「瞼の母」「シンデレラ」、まったく演出手法の異なる3作品。
 「リア王」には、私が北京の中央戯劇学院で教えたことのある俳優も出演している。早稲田小劇場時代に、私の演出作品の殆どの主役を演じたアメリカ人、トム・ヒューイットを彷彿とさせる俳優である。両人とも身長は約190センチ、顔や体型だけではなく声も似ているからフシギ。トム・ヒューイットがブロードウェイのスターになったように、この中国人俳優テン・チュン(田冲)も、いずれは中国で大活躍するにちがいない。
 北京に行く前の今が、俳優の演技が深まる潮時、大事な山場になってきたので、朝から夜遅くまでの稽古をしている。しかし、一日に2本、3本と稽古をするのはさすがに疲れる。体力のことではない。作品によって、感受性の質を切り換え、俳優の演技に集中しなければならないからだが、その切り換えが上手くいかない。身体が素早く対象に、ノラナイのを感じる時がある。しかし、3本の作品を連続的に稽古してみて、良かったこともある。音楽の使い方の意識性を、改めて確認できたからである。それぞれの舞台に使用している音楽が、キレイニ、チガッタ。
 「リア王」はヨーロッパのクラシック音楽、「瞼の母」は日本の演歌、「シンデレラ」はフランスの庶民の流行歌とも言うべきシャンソンが多用されている。それにしても、ヘンデル、チャイコフスキー、アダモ、カーペンターズ、バーブ佐竹、北島三郎、ソノタ、イロイロ、よくぞ並べたもの。
 もうかなり昔のことだが、私の演出する舞台をよく観にきた音楽評論家の吉田秀和さんが、「リア王」の音楽の使い方に感心してくれたことがあった。その反面、チョット、イタズラ気分で、流行歌を使ったギリシャ悲劇の舞台を観た後では、真面目な顔をして言われたものである。スズキさん、流行歌では人間のホントウノ悲しさは表現できませんよ。利賀村の我が家、評論家の加藤周一さんも一緒だった。
 西洋の文化・芸術・思想をタップリと身に染み込ませ、日本に於いての近代主義精神の神髄を生きていたかのような知性豊かな二人。私は、それが知的であろうが大衆的であろうが洋の東西を問わず、芸術文化遺産のドンブリ勘定をしているニンゲン。その時は返すべき上手な言葉を思いつかず沈黙した。
 私が演歌と呼ばれる流行歌をトキタマ舞台に流すのは、人間の悲しさを表現したいからではなかった。そこに語られている、人生や女への男の身勝手な物語=ロマン、そのバカバカシイ想いを確認したいためだった。それに、物語が展開する場所はいつも、サビシゲ。このバカバカシサ、サビシサは何処からヤッテクルのか。日本にはこの光景に自ら率先して馴染む人たちが沢山いるのである。私はこの、バカバカシクテ、サビシイ光景に興味を感じ、自分もその気分を身体的に味わってみたいと思ったのが正直なところ。演劇人の習性であろう。
 今回、吉祥寺シアターで上演する私の新作「瞼の母」には、やはり主題歌のように演歌が流れる。一時代前に流行った、近代主義者への嫌みのために、土着民族主義的な大衆文化を持ち出したのではない。人間はいつでも何処でも、バカバカシク、そして、サビシイ。自分を含めた人間を見つめる時の、私の心情の潜在的な一面が、長谷川伸に触発されて、久しぶりに堂々と顔を出したようである。
 これを観たら、吉田秀和さんは再び言うかもしれない。チットモ、カワッテイナイ、人間のホントウノ悲しさが、まだ解っていない。そう言われたら、今度は私も言わなければならないかもしれない。
 悲しさではなく、人間のバカバカシサの方で、カンベンしてください。その、バカバカシサが、人間の哀しいところなのですから。
 


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