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SUZUKI's Works ⁄ 鈴木忠志構成・演出作品

12月23日 駆け抜けた一年

 サンクトペテルブルクでの日露共同開催の第9回シアター・オリンピックスの公演「シラノ・ド・ベルジュラック」を終え、11月の22日に帰国。すぐ「サド侯爵夫人」の稽古に入り、吉祥寺で13日から21日迄の公演をした。今年は利賀村と黒部市でのシアター・オリンピックスの公演以前にも、シンガポールや北京でも公演しているから、まことに忙しい一年だった。ようやく故郷の利賀村へたどり着いたといった感がする。
 昨年の暮れは、恒例の吉祥寺公演はなかった。オリンピックスの準備のために、劇団にその時間の余裕がなかったのである。一年の間のことだが、吉祥寺の街が新鮮で楽しかった。また、懐かしい観客の顔を数多く見られて嬉しかった。それだけではなく、女優たちの成長により、舞台の出来具合が、以前より素晴らしい、という感想を多く聞かされ有り難かった。
 この「サド侯爵夫人」の舞台は、私の演劇理念と俳優訓練の実際が、最も端的で分かりやすく展開しているものである。スズキ・エンシュツ・スタイル、の見本のようなものと言ってもよいかもしれない。
 私の舞台の特徴は、書き言葉を音声化して、しっかりとした日本語として観客に聞かせる時の手法にある。語られる言葉が、舞台上に存在する相手役に、日常会話の光景のように話しかけられないところにある。また、それだけではなく、観客に言葉を語り伝える役者の身体は、たえず観客席に向いていて、日常では接することのできない力強さをそなえた立ち方や動きをしている。役者同士が向かい合うことがないわけではない。しかし役者はおおむね、観客側の空間のいずこかに相手役が存在すると仮定して演技をする。この演技がリアリティーを獲得するための特殊な訓練が、スズキ・トレーニング・メソッド、と言われているものであるが、もちろんそれは、作者の思想と私の演劇理念が上手に出会って、観客に思考の活性化を促すために考案されたものである。
 私は役者たちに、言葉は言葉として意味内容は明瞭、観客の耳に心地よく、高低アクセントである日本語の音楽的な特性を踏まえた声を届けること、身体はどんな時にも力強く、観客席に向かい彫刻的に存在すること、一瞬でも生理的<ナマ>で弛んだ<リラックス>日常的な身体にならないことを要求している。私の使用するテクストの言葉は長文のものが多いから、役者はその長い相手役の言葉を聞いている間は、おおむね不動のまま立っていることになる。動くとしても重心を上下させない水平移動である。むろん、言葉を語っている役者も静止しているから、舞台全体は絵画的にならざるをえない。
 もう40年も前になるか、パリで「トロイアの女」を上演した後に、偶然のことだが、詩人の大岡信と文芸評論家の澁澤龍彦と食事をしたことがある。その時に大岡信が言った。鈴木さんの舞台照明は、レンブラント光線のようだね。レンブラントとは17世紀のオランダの画家、光と影を見事に使いわけて、人物を印象的に浮き上がらせた巨匠である。外国人には言われることはあったが、日本人では初めてのことだった。
 確かに大岡信の言うとおりで、私の舞台では、どの場面でも登場人物全員が同じに明るいというわけではない。リアリズム演劇のように、登場人物たちが同じ日常生活的な場面に同在しているとする視点から、舞台を構成しないからである。その時点での重要人物だけが、ことさら明るく絵画的に浮き出るようにしている。しかも、上半身は明るく下半身は足元にいくほど暗くなっている。
 今回、吉祥寺で上演した「サド侯爵夫人」はその典型である。人物相互の明暗もさることながら、一人一人の顔面の左右の光度すら違えてある。これは三島由紀夫の原作が、明るさと暗さが同時に共存する人間の深部を描いていることにもよっている。
 サンクトペテルブルクでの「シラノ」の休演日に、私は久しぶりに世界三大美術館の一つと言われる「エルミタージュ」を訪れた。演劇的に集団の肖像を描いたとも言われるレンブラントの作品が数多く所蔵されているからである。その作品の中には新約聖書に題をとった晩年の傑作「放蕩息子の帰還」と命名されたものがある。息子を抱きしめる老父のやさしい顔はクッキリと浮き、背景の人物たちは陰影の中に立っている絵である。
 もう二度と来ることもないだろうエルミタージュの「レンブラントの間」に佇みながら、私も人生80年の大半は放蕩息子、<ソノモノダッタ>と思い返され、懐かしい芸術家に再会した気持ちがして幸せであった。 


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