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SUZUKI's Works ⁄ 鈴木忠志構成・演出作品

6月23日 海ゆかば

 今はどうか知らないが、若い頃に通っていたパチンコ店は、開店と同時に必ず「軍艦マーチ」を流した。この曲の軽快なリズムとともに、開店を待って並んでいた客たちは、一斉に店内になだれ込む。瞬時の間を置いて、あの独特の騒音の中の沈黙の熱中。客観的にその光景を想い浮かべるとかなりバカバカシク、オカシイ。その点では、こんな曲を開店時に使うことを思いついたパチンコ店の経営者には、演出家としての拍手を惜しまない。
 第二次大戦中、天皇直属の軍隊の司令本部、大本営が陸海軍の勝利を誇らしげに国民に告げる時に、よく聞かされた曲である。現在でも海上自衛隊の儀礼曲らしいが、終戦後には右翼の街宣車が走りながら大音響で流すのをよく見かけた。歌詞はたわいがなく、守るも攻むるも黒鉄<くろがね>の、浮かべる城ぞ頼みなる、云々といったものである。
 これに対して、日本軍玉砕の悲報を伝えたり、特攻隊の出撃の時などに流された曲「海ゆかば」は、信時潔作曲による格調のある旋律であった。歌詞もまたスゴイものである。「海行かば、水漬く屍 山行かば、草むす屍 大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」
 死体が水に浮くことになっても、草が生えるようになっても、私たちは大君の側で死のう、自分のことを顧みないようにしよう、というような意味である。万葉集に収録されている大伴家持の長歌の一節だが、作曲されたのは昭和12年である。敗戦後のしばらくは、日本の悪夢の時代のシンボルの一つとして封印されてしまった。
 信時潔自身は平和主義者だったとも言われているが、この歌曲自体は、「君が代」に次ぐ「準国歌」としての役割を軍国主義時代に果たしたとみなされたためである。しかし、私の戦争の記憶の中では、とび抜けて忘れられない旋律である。戦争が子供心にもたらした、唯一のすばらしい記憶と言っていいかもしれない。むろん当時の私には歌詞の意味は分からなかった。後に理解した時には、茫然たる想いにさせられたことは覚えている。私はこの曲を今夏のSCOTの公演演目の一つ、「世界の果てからこんにちは」の舞台で使っている。
 この舞台は、1991年に利賀フェスティバルの10周年を記念して創ったものである。日本的心性がよく表現されていると思われる言語的な素材を、一人の男の心象風景として次々と展開するコラージュ風の作品である。池をバックにした野外劇場での上演なので、色々な場面で花火を使用した。大変な好評で何度か上演したが、「海ゆかば」は何回目かの時に新しく挿入したのである。曲とともに、特攻隊の自爆する光景を連想させるような花火の種類を選び、打ち上げた。
 最終場面はシェイクスピアの「マクベス」のセリフを少し変更し、主人公に語らせている。マクベス夫人が死んだという報告を聴く場面のそれである。マクベス夫人のことを「ニッポン」という言葉に置き換えた。
  男 何を騒いでいた。
  女 ニッポンが、陛下、お亡くなりに。
  男 ニッポンもいつかは死なねばならなかった。
    このような知らせを一度は聞くだろうと思っていた。
    明日、また明日、また明日と、時は小きざみな足どりで一日一日を歩み、
    ついには歴史の最後の一瞬にたどりつく、
    昨日という日はすべて愚かな人間が塵と化す、死への道を照らしてきた。
 日本人がまだ、東日本大震災の惨状を生きている現在、「海ゆかば」も「マクベス」の書き換えたセリフも、かっての舞台とは異なった印象を与えることになるかもしれない。
 小林秀雄は第二次大戦中に「無常といふ事」の中で次のように書いた。「思い出が、僕らを一種の動物である事から救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思ひ出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思ひ出す事が出来ないからではあるまいか。上手に思ひ出す事は非常に難しい」。
 確かに演劇はギリシャ以来、思い出の歴史である。過去とそれを思い出す、その思い出し方の方法を集団で共有しようとする努力の産物であった。小林秀雄的に言えば、死んでからはっきりした人間の形を獲得するのではなく、生きている間に、少しでも人間の顔を持ちたいという願望に支えられた文化活動だった。
 今回の「世界の果てからこんにちは」の舞台が、演劇のそういう努力の歴史に連なっていればと思っている。


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