SELECTED ESSAYS

過去の発言より

娯楽と芸術の違い

 人間が生きていくときには、現在の自分の状態を積極的に楽しんでいこうという気持と、もっと違う状態を手に入れたい、そうしたらもっと楽しいのではないかという二つの気持があるのではないかと思います。この両方の気持を持って生きているところが、人間の人間たるゆえんです。単純化していえば、舞台表現も集団的になっているだけで、この二つの気持を前提にして創られています。前者の気持で創られるものが娯楽とか芸能と呼ばれるもので、後者が芸術だと考えてよいのではないでしょうか。娯楽や芸能は生きているときのその場その場が楽しければいいということですから、たいへん開放的ですし享楽的です。一方芸術と呼ばれるものは、自分自身の現状を乗り越えたい、あるいは自分の置かれた環境を変革したいという欲求が前提にあって出てくる表現ですから、それに接してただ開放的に楽しいということはない。観客の方はいま目の前に見えているもの、いわれていることにたいして一定の判断を迫られたりします。そこで個人個人によって論争が起こったりします。いま現在、私たちが現代芸術として受け入れて楽しんでいるものも、誕生当時はそういう論争の渦中を経て存在しているものも多いのです。
 これを別の比喩でいえば、だれでも手に入れやすく、一時的な病状に即効的に効果をあらわす大衆薬と、ガンの薬や抗生物質との違いです。いい方をかえれば、症状を改善するものと、その症状の原因をなすものを滅ぼしたり、殺すものとの違いです。後者は先端的な知識と実験を重ね、人間の生命を奪うものとの戦いのなかで開発されてきたものです。たえず新しい発見、発明として出てきますが、完全なものはないし、副作用もある。ですから、だれでも身軽に近づけるものではないし、それを使うには専門的な判断が必要です。特殊で強い興味がなければ身近にもなってこないものです。人間が生きていくには、この二つのことがバランスをもって存在しなければなりません。
1996年3月、「劇場文化」1号より