TOGA

利賀

日本にあって日本ではない
もうひとつの世界(TOGA)

聖地・利賀村

 富山県東砺波郡利賀村は、岐阜県境に接する過疎の村である。東西23キロ、南北52キロ、村のなかを移動するには、クルマに乗っても1日がかり、しかも山また山といっていいくらい平地がない。冬になると、平常でも3メートル、多いときには4メートルの積雪がある。山なみのあいだを渓流が走り、風光は明媚であるが、生活環境のきびしさから離村者が多く、村の現在の人口は1,300人ほどである。この数字は、終戦直後からくらべると3分の1だという。
 私がはじめてこの村を訪れたのは、今から4年前の2月初旬であった。もっとも積雪の多い時期で、その日も、日中は猛吹雪だった。それまで常打ち小屋としていた新宿区戸塚町の小劇場が、契約解消になり、新しい活動場所を探していたとき、この村に合掌家屋があり、それを貸しだしているということを教えてくれた人があったからである。
 上野駅から信越線の特急に乗って6時間、富山駅から高山線に乗りかえて4つ目の越中八尾駅で下車する。それから夏季には1日3便で冬になると2便になってしまう村営バスに乗ると、1時間ほどで役場がある村の中心に着く。村役場からひと山越えた百瀬川沿いに、人が住まなくなった合掌家屋5棟を村が買いあげ、移築した場所がある。
 村の家屋は昭和20年代までほとんど合掌造りだったらしい。それが生活の近代化とともに、屋根はトタン、窓はアルミサッシといったぐあいになり、外からみるかぎりは都会の住宅とちがいがないようになって、もはや昔のままの合掌家屋は村有のその5棟をのこすだけになっていた。
 みわたすかぎり白い雪原のなかに、急勾配の黒ずんだ茅葺の屋根がわずかに首をだして、降りしきる雪のなかに見え隠れしている。なるほど合掌造りとはよく名づけたもので、自然の圧倒的な力に抗して、天に向って合掌していたのである。雪のなかを四つん這いになって泳ぐように進んでいき、2階の窓から室内に下り立ってみると、今度は外界の白さとは対照的な黒く煤けた柱の林立である。それも平地の家屋の柱とはまったくちがい、太く高く、自然のままの曲線が生かされている。荒っぽいが力強い。
 必要最小限の構造材によって空間をがっちりとおさえこんでいる余分のなさは、実に男性的で、はじめて日本の家屋というものに感動したのである。
 私はかねがね、劇場という概念のために奉仕するようにつくられた建造物ではなく、住空間をそのまま劇場にすることはできないかと考えていたから、ここを舞台とすることに躊躇するところはなかった。(1980年)

註:現在は市町村合併により南砺市利賀村となっている利賀村の人口は2019年現在、約500人。

演劇の広場

 日常そのもののなかに非日常を感受する、あるいは自分の日常と他人の日常を重ね合わせ対話することによって、自分の日常というものを意識化する、人が出会い、お喋りすることも、食べることも、みることも、演ずることも、寝ることも、旅することも、ゆるやかで幅のある日常という時間のなかで渾然一体となって、その全体が演劇の時間を構成しているように感じられる、どこからどこまでが日常で、どこからが非日常かなどという区別がことさらな意味をもたないような時間、日常といえばすべてが日常であり、非日常といえば、そうよんでもいい時間、そういう得体のしれない時間が流れる場所をつくりだすこと、これは演劇の理想とするところだろう。それをひとまず広場とよぶことにしよう。
 古代に成立していたこの広場は、近代になって劇場という場所になった。そして、観客も役者も、もっともよく日常を生きる気分を共有するためにこの場所に出向くのではなく、非日常だけを体験しにいくことになった。エレベーターにのって、偶然性というものを極端に排除した均質な空間に坐し、人に出会ってもお喋りも食事もせず、幕がおりれば黙々と家路を急ぐ。演劇体験とは、劇場とよばれる空間の幕があがったときからおりるまでの時間だけにパックされることになったのである。要するに、演劇体験が読書体験と同じになってしまったといってよい。たとえば、観客一人一人が入口で1冊の小説を手わたされる。ベルが鳴り、幕があがると、椅子に坐っていっせいにその小説を読みはじめる。全員が読み終えると幕がおりる、みな黙々と劇場を出ていく。たまに気のあった同士が、時間を気にしながら、ロビーで印象を語りあう。便所やベッドや書斎での読書を、集団的規模に移行した場所が現在の劇場なのである。
 もっとぜいたくに時間をつかいたい、日常の習慣も偶然性もあたかも必然性であるかのように遊び娯しむ、演劇の舞台はそのためのちょっとした契機になりうるのか、演劇活動をこの功利的で忙しい時代のなかで日常をそのように意識し、浪費する魅力あるきっかけにできたら――それが、私が利賀村での公演を始めた理由のひとつでもあった。(1980年)

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