SELECTED ESSAYS

過去の発言より

<精神の型>としての専門家

 スポーツの場合、多くの人々がどのくらい身体がハードなものか、どの程度の精神的克己心がなければ一流にならないかということがわかっていると思う。ところがダンスや演劇というのは、どれほどの訓練や克己心が必要か、意外にわかられていない。娯楽であり、楽しいものだと思い込んでいる人が多い。だけどマラソン選手が走る姿を見ればわかると思いますが、ただ楽しいと思ってやっているはずはないんです。
 ある人が、中村歌右衛門に「舞台であれだけのことができたら、楽しゅうございましょうね」と聞いた。すると歌右衛門が「苦しゅうございます。でも、やめられないのですから、好きなんでございましょうね」と答えている。「好き」という意味は、楽しいということではなくて、自分が何かに挑戦するという姿が、第三者に見られて楽しいということなんです。自分を見つめる集中力であるとか、コントロール能力であるとかを、自分だけで見るのではなくて、第三者をまじえて自分を診断したい、ということがすごいことなんです。他者の目を通して自分を試す、という精神状態なんだと思います。マラソンもそうでしょう。だから、その前提には苦しい、ということがある。しかし、最後まで完走できたあとは、楽しいといえば楽しいのかもしれないけれど、苦しさと向きあうなかで「やっぱり好きなんだよ」と思うことの楽しさなんです。だから、マラソンが楽しくて好きなのではなくて、自分をそうやって試していることが好きなのです。
 専門家というのは、日常的な楽しさへの感受性を自己否定していく「力」に裏づけられている仕事をしている人です。だから、舞台上で即自的に開放されて、それで「さあ、みんなで楽しくやりましょう」などというのはアマチュアレベルの話です。
 
2009年8月、「演劇人」25号<金森穣との対談>より