SELECTED ESSAYS

過去の発言より

古典の演出について

 日常では決して見ることのできない光景を舞台上に出現させながら、日常世界を生きる人間の孤独や不安や苦悩を可触的にする。そういう演劇を創り出したいと、これまでずっと演出に専念してきた。そのために私の舞台では、日常では出会うことのない物たちが共存したり、場違いと思われるような音楽が突然流れたりする。
 たとえば、チェーホフの「イワーノフ」では、登場人物のほとんどが籠に入っている。入っているというより、主人公以外のすべての人物は、籠に首と手足が生えている生き物として登場し、主人公と議論する。ギリシャ悲劇「オイディプス王」では幕開きから幕切れまで主人公は車椅子に乗り、地球を思わせる絵の描かれたキャンバスの上をグルグルとまわりつづける。フランスの名戯曲として名高い「シラノ・ド・ベルジュラック」の装置は、葬式を思わせる白い花畑である。登場人物たちはすべて幕末から維新のころの日本人を思わせる衣裳をまとって、その花畑の前後を動きまわる。そのバックに流れる音楽は、ヴェルディ作曲のオペラ「椿姫」の中のいくつかの曲である。要するに日常的に出会う光景として、舞台空間を統一してはいないから、日常生活を生きる感覚からすれば、この場所は不自然であり、物や音楽は戯曲が描く人物が生きた空間と比較するとミスマッチとしか言いようのない出会いかたをしている。
 なぜ戯曲の登場人物たちが生きている日常に近い舞台空間を作り、その環境のなかで俳優に演技をさせないのかと疑問に思う人は多いだろう。とくに日本人は、日常生活の見慣れた空間で繰り広げられる人間関係がドラマの前提だと見なしているから、その感じは深いと思う。しかし、私の演劇の考え方とその活動はこの演劇への考え方を否定するところに成り立っているのである。演劇は日常では見慣れない光景を舞台上に展開することによって、我々が生きている日常をあらためて考えさせるものだというのが私の考えなのである。とりわけ古典戯曲を演出する場合に、私はこの観点を後生大事にしてきた。
 演劇で大事なことは、作家が書き、俳優が語る言葉が、今初めて聞くような新鮮な印象をもち、その言葉を通じて、その作家が我々に伝えようとしたメッセージが、考えるに値するものだという感じを起こさせることである。優れた劇作家は他人に聞いてもらいたい強いメッセージをもっている。とくにヨーロッパの劇作家は、演劇という歴史的に形成された表現形式を使いこなして、人間の生き方はこれでよいのか、私は人間をこう理解しているがどうか、という問いを投げつけている。それは往々にして人間の不可解さに基礎をおいた人間の惨めさや哀しさの感覚への考察になっているのだが、なぜ人間は、生きながらこういう感覚を味わうのかという問題提起をしている。観客はその問題提起にふれることによって、いま現在の自分の人生や社会について考える。優れた古典戯曲はこのメッセージの故に、現代を生きている我々の心の琴線に触れてきたのである。
 この作家のメッセージを鋭く浮かび上がらせるために、演出家は何をすればよいのか。おそらくそれは、その言葉を語る俳優が、我々が送っているような日常生活の光景の中を生きるのではなく、舞台でなければできない人工的な空間で語り生きるべきだというのが私の見解なのである。その場合に大切なことは、その作家が生きた当時の時代的、空間的な特殊性を視聴覚的に現代に翻訳しないことなのである。俳優の演ずる空間が劇作家の生きた時代がもたらす制約に忠実になるのではなく、劇作家のメッセージを現代に生かすための制約、劇作家の言葉が最も有効に機能する空間の作り方に誠実でなければならないのである。そのためならば、創造力としての想像力は、時代や日常空間の制約からどれだけ羽ばたいても羽ばたきすぎることはないと考えるのである。
2006年、「東京新聞」9月9日朝刊より