SELECTED ESSAYS

過去の発言より

幻想の天使

 一昨年に舞台化した長谷川伸の「瞼の母」を、定期的に上演できる、より完成された作品にしたいと考え、新しく創り直してみた。今回は息子を想う孤独な母の心情の方に焦点を当てている。その心情を透かして、日本人の心の在り方の一つの特性が浮き出るようにした。
 相変わらずシチュエーションは病院か養護施設である。ということは、死ぬ直前あるいは意識が不明晰になりつつある老女の幻想や回想を通して、舞台が展開されていくということである。
 長谷川伸が肯定的に描いている主人公のヤクザは、日本人と言う名前にしてある。長谷川伸が理想の人間的心情を身につけているとした男を、母親が懐かしみながらも、ついに手にすることのなかった日本のシンボルのように扱っている。むろんこんな日本は、とうに無くなっているし、馬鹿らしいものだという見解もあるだろう。たとえそうだとしても、一時期の日本人が、どんな境遇に在り、その境遇を真面目に生きようとして、どんな喜怒哀楽の感情を味わったのか、それを知っておくことはムダではないと思うのである。それでなければ、この舞台の原作が、大衆演劇の金字塔のように見なされ、多くの日本人の感情を揺り動かすこともなかったはずである。
 東日本の大震災から既に2年も経っている。今だ30万に及ぶ人たちが故郷や家族の行く末を想い、不安な日々を送っている。もちろんその人たちの中には、既に新しい希望ある人生に向かって、旅立った人もいるだろうが、大多数の老人たちにとっては、生きる希望は回想や幻想に浸ることによってしか存在しないと思える。
 天使の声は地獄にいる人の声だ。フランツ・カフカの言葉である。確かに看護婦は白衣の天使として、もはや人生に明日のない臨終の人が最後に見る幻想の人間である。私の経験からしても、実際の看護婦が天使であるとは言い難いが、ソウ、アッテホシイ、と願う心情は絶えることもなく存在することは確かだろう。
 声だけではなく本当に天使のように思える人間が、この日本の不幸な人たちの前に、一瞬でも現れることがあるのかどうか、そんなことを考えさせられる昨今である。
2013年8月、「新釈・瞼の母」演出ノート