Works鈴木忠志構成・演出作品

ディオニュソス

原作
エウリピデス『バッコスの信女』
初演
1978年 岩波ホール

演出ノート

物語の誕生

今はただ、忌まわしいキタイロンの山の姿の見えぬところ、奉納の
霊杖が悲しい思い出を誘うことのないところへゆきたいと願うのみ。
そのようなものは他の信女らが、崇めたければ、勝手に崇めるがよい。
―――アガウエ

 体験を物語へとつくりかえる現象は、人類の生活史上、つねに重要な役割を果たしてきた。物語には、神話や伝説、あるいはおとぎ話などのように、集団のなかでその社会的役割が比較的明白に認識されているものがある。一方、宗教の経典やイデオロギー、あるいは歴史のように、より抽象的な形式で存在しているものも、物語の範疇に加えることができる。つまり、集団が集団として存在するための自己正当化のために、ある共同体に存在する情報や感情を論理的な意味連関のうちに集約したものである。
 物語には、個人を共同体へ引き寄せ、共同体の精神的な統合を強固にする機能がある。またその反面、共同体に反抗しようとする個人の衝動に対して、逆の構造や形式を与え、集団的抑圧に対処するための自己防衛の手段となることもある。
 人類史を通して、物語はつねに宗教と全体主義政府という形式のなかにその最も力強い表現を見いだしてきた。物語が利用されることで、数え切れない人々が励まされ、希望を与えられてきたのだが、物語はそれと同様にたやすく抑圧の道具へと転化もしてきた。物語は、それを欲しない個人までをも強制的に集団へと束縛しうるからである。物語には、二つの刃がある。われわれは、個人的にも、集団としても、物語が与えてくれる安らぎや、他者との結びつきには魅力を感じ、また、結果としてもたらされる抑圧には抵抗した歴史をもっている。
 物語は、集団を精神的に統合するために、ある犠牲、贖罪の羊(スケープゴート)を生み出すことがある。そのための犠牲となる個人あるいは集団の存在を創り出す。この観点からエウリピデスの『バッコスの信女』では、物語世界が確立されるために、個人が犠牲になる過程が描かれていると見ることができる。自分が手にしている首が息子のものだと発見するその瞬間、アガウエは、息子と自分が宗教集団の物語の犠牲者であったことをはっきりと自覚する。彼女は、それまでいた世界を去り、その対極にむかう旅に出る。
 エウリピデスはディオニュソスを舞台上に登場させ、登場人物のひとりとしてことばを話させたが、私の『ディオニュソス』においては、神のことばは僧侶たちのことばにかえられている。ディオニュソス神は、神それ自体として存在していたのではなく、むしろ他者をまき込むことを必要とする集団に存在し、人々を精神的に統制しようという集団の意志が、『ディオニュソス』という“神=物語”を創造したのだというのが、ここでの解釈である。
 ディオニュソスとペンテウスの葛藤は、神と人間との争いではない。宗教集団と政治的権力との論争であり、同じ地平に存在する二つの集団的価値体系がくり広げる闘争のドラマである。