Works鈴木忠志構成・演出作品

ニッポンジン

原作
長谷川伸
初演
2011年 岩舞台

演出ノート

幻想の天使

 一昨年に舞台化した長谷川伸の『瞼の母』を、定期的に上演できる作品にしたいと考え、新しく創り直してみた。今回は息子を想う孤独な母の心情の方に焦点を当てている。その心情を透かして、日本人の心の在り方の一つの特性が浮き出るようにした。
 相変わらずシチュエーションは病院か養護施設である。ということは、死ぬ直前あるいは意識が不明晰になりつつある老女の幻想や回想を通して、舞台が展開されていくということである。不幸な老人にとっては、生きる希望は回想や幻想に浸ることによってしか保持しえないこともある。
 長谷川伸が肯定的に描いている主人公のヤクザは、ニッポンジン(日本人)という名前にしてある。長谷川伸が理想の人間的心情を身につけているとした男を、母親が懐かしみながらも、ついに手にすることのなかった日本のシンボルのように扱っている。むろんこんな日本は、とうに無くなっているし、馬鹿らしいものだという見解もあるだろう。たとえそうだとしても、一時期の日本人が、どんな境遇に在り、その境遇を真面目に生きようとして、どんな喜怒哀楽の感情を味わったのか、それを知っておくことはムダではないと思うのである。それでなければ、この舞台の原作が、大衆演劇の金字塔のように見做され、多くの日本人の感情を揺り動かすこともなかったはずである。
 天使の声は地獄にいる人の声だ。フランツ・カフカがそんなことを言っていたと記憶する。確かに、看護婦は白衣の天使として、 もはや人生に明日のない臨終の人が最後に見る幻想の人間である。私の経験からしても、実際の看護婦が天使であるとは言い難いが、ソウ、アッテホシイ、と願う心情は絶えることもなく存在することは確かだろう。
 声だけではなく、本当に天使のように思える人間が、この日本の不幸な人たちの前に、一瞬でも現れることがあるのかどうか、そんなことを考えさせられる昨今である。
 もうかなり昔のことだが、私の舞台をよく観にきた音楽評論家の吉田秀和さんが、『リア王』の音楽の使い方に感心してくれたことがあった。その反面、チョットシタ、イタズラ気分で、流行歌を使ったギリシャ悲劇の舞台を観た後では、真面目な顔をして言われた。流行歌では、本当の人間の悲しさは表現出来ませんよ。利賀村の我が家、評論家の加藤周一さんも一緒だった。
 西洋の芸術文化、思想哲学の精髄をタップリと身に染み込ませ、日本に於ける近代主義精神の代表者を自負するかのような知性豊かな二人、私の方はといえば、それが知的であろうが低俗であろうが、洋の東西を問わず、芸術文化の歴史遺産を相手にドンブリ勘定をしている。その時は、上手な返答の仕方を思いつかず沈黙した。
 私が演歌と呼ばれる流行歌を舞台に流すのは、人間の悲しさを表現したいからではない。そこに語られている、人生や女への男の身勝手な物語り=ロマン、そのバカバカシイ想いを確認したいためだった。それに、物語が展開する場所はいつも、サビシゲ。このバカバカシサ、サビシサは何処からやってくるのか。日本にはこの想いと光景に、自ら率先して身を浸し馴染む人たちが沢山いるのである。
 今回の新作『新釈・瞼の母』には、演歌がふんだんに流れる。一時代前に流行った、近代主義者へのイヤミのために、土着民族主義的な大衆文化をもちだしたのではない。人間はいつでも何処でも、バカバカシク、そして、サビシイ。自分を含めた人間を見つめる時の、私の心情の潜在的な一面が長谷川伸に触発されて、久しぶりに堂々と顔を出したのである。これを観たら、吉田秀和さんに再び言われるかもしれない。イイ、トシヲシテ、人間の悲しさがまだ解っていない。今度は私も、言わなければならないかもしれない。
 悲しさではなく、人間のバカバカシサの方で、カンベンしてください。その、バカバカシサが、人間の哀しいところなのですから。