Works鈴木忠志構成・演出作品

廃車長屋のカチカチ山

Kachi Kachi Yama at the Junkyard Shantytown

初演
2009年 利賀 野外劇場

演出ノート

逸脱する人間

 私の舞台を観つづけてくれた方々には、今さらいうまでもないことだが、私のいくつかの舞台の主調音は「世界は病院」である。登場する人物の多くは、われわれが通常使用している健康あるいは健全という概念から逸脱している。というより人間にとってはそういう概念自体が疑わしく、存在しえないのではないかという主張がなされている。
 人間は環境次第でどのようにでも変貌する存在であり、感情的な思い込みや妄想に取り憑かれると何をするかわからない生物で、私自身を含めたこの人間という不可解な存在と、その存在が作り出している不可解な事件について考えてみようというのが私の舞台である。
 そういう意味では、私の舞台は、それを観て楽しんでいただくだけではなく、人間や世界について考え、議論する材料を提供する知的な作業だと思っている。だから、娯楽としての演劇が集める観客と較べては、たかの知れた数の観客しか集めることができていないかもしれないが、少数とはいえ、日本のみならず世界各国の人たちが、私のこの考えにもとづく舞台活動を物心両面で支援してくださり、誠に幸せであり、感謝感謝である。
 今回の『廃車長屋のカチカチ山』は、「世界は病院である」というこれまでの発想をさらに徹底したものである。これまで登場していなかった医者も登場し、おおいに狂った言動を繰り広げる。世界が病院である以上、医者も看護婦も健康あるいは健全という概念からの逸脱に無縁ではないということを示したかったからである。
 日本では近ごろ、格差という言葉がはやりである。広辞苑には「商品の標準品に対する品位の差。また、価格・資格・等級などの差。」と書いてあるが、こういう現象が日本社会では最近になって出現してきたかのような感じである。しかし、格差というものは世界中のどこの国にも存在してきたし、事あるごとに人間が作り出してきたものである。一つの集団や国家がまとまりをもって生き延びていくためには格差は必要だし、むしろこの格差を生み出す制度、法律や経済や教育のシステムを絶えず作り出してきたのが人類の歴史である。だから、制度とはむしろ格差を作り、それを公的に承認するためにあるのだといってもいいぐらいである。
 おそらく問題なのは、格差そのものではなく、制度上から出現する格差を前提として、人間を差別する価値観が発生するということであろう。人間にはあたかも優劣、上下があり、優者や上位者が劣者や下位者とされた人間を軽蔑したり、また劣者や下位者と見なされた者が怨恨という感情をもつ権利があるかのような関係を派生させることにある。
 人種差別やセクハラなどということも格差から発生しているというのが私の見解であって、男にも女にもこの不穏な感情は状況次第で激しく噴出してくる。現在の日本は急激な社会構造の変化とあらゆる面での格差に直面して、それを前提として、勝ち組、負け組などというまさしく差別としかいいようのない言葉が公然と口にされたりする。おそらく今後この傾向はますます拡大していくだろう。そうあってはいけないという思いもあって、健康あるいは健全という社会概念から逸脱せざるをえなかった人々の姿とそのエネルギーの噴出の仕方を舞台上に造型してみた。現在の日本社会から未来を考える材料にでもなれば幸せだと思っている。
 今回の舞台を創るにあたっては、さまざまな人たちの発言、小説、戯曲等の言葉を引用し改変させてもらっている。サミュエル・ベケット(劇作家)、マクシム・ゴーリキー(劇作家)、太宰治(小説家)、岡潔(数学者)、寺山修司(劇作家)、阿久悠(作詞家)、鈴木忠志(演出家)などだが、存命中なのは鈴木忠志だけである。これらの人々に感謝しておきたい。