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SCOT Essays詳細

February,05,2018

シアター・オリンピックス

 第三回シアター・オリンピックスが、4月21日からロシアのモスクワで開幕した。6月29日までの開催期間、46ヵ国から参加した劇団の作品が上演される。私もボリショイ劇場の歌手による細川俊夫作曲のオペラの一部と、私が芸術総監督をしている静岡県舞台芸術センターのギリシャ悲劇『エレクトラ』と『オイディプス王』、それに観世榮夫の能『善知鳥』を新しく演出した四作品を、6月中旬から下旬にかけて上演する。
 このシアター・オリンピックスは、私を含めた世界の劇作家、演出家11人によって構成されるシアター・オリンピックス国際委員会が主催するものだが、そのつど、スポンサーになってくれる団体との共催で行われる。第一回はギリシャ政府、第二回は静岡県、今回はモスクワ市との共催である。シアター・オリンピックス国際委員会は、ギリシャの演出家であり現委員長であるテオドロス・テルゾプロスの呼びかけによって1994年に創設された。
 その当時は、東西の冷戦が終結して平和が訪れるという多くの人々の期待に反し、民族紛争が多発しはじめ、また経済システムを中心としたグローバリゼーションにより、文化の画一化が進行しだしていた。こういう傾向がもたらす精神活動のマイナス面を克服するために、それぞれの地域や民族に受け継がれてきた固有な文化活動を検証し、何が人類の共通財産になりうるのかを明らかにする国際的な協力関係を築きたいというのが、委員たちを結集させた認識であった。具体的には国際協同の在り方のルールづくりや、未来へ向けての教育制度をどうすべきかという問題意識である。
 さいわい、このシアター・オリンピックスの存在意義は、回を重ねるごとに理解の輪を増し、第一回のギリシャ大会では9ヵ国だったのが、第二回の静岡大会では20ヵ国、今回のモスクワ大会では46ヵ国の参加となっている。これにはルシコフ・モスクワ市長の、モスクワをもう一度舞台芸術のメッカにしたいという強力な意志が反映している。モスクワ市はこのシアター・オリンピックスのために二つの新しい劇場を建設した。また、ロシア政府にもこれから舞台芸術を振興しようという政策的な意図があるようである。
 4月23日、シアター・オリンピックス国際委員会を代表して、私とアメリカ代表の演出家ロバート・ウィルソン、モスクワ大会の芸術監督をつとめる演出家ユーリー・リュビーモフの三人は、プーチン大統領とクレムリンの会議室で一時間余にわたって懇談した。
 そのときプーチン大統領は、ロシアが誇りにできる重要なものの一つに舞台芸術があり、ロシア政府としては全面的にこれを支援したいとし、どういう財政的な援助の仕方や教育の仕方が望ましいかをわれわれにたずねた。大統領は、共産主義政権下とは違い、芸術家への支援は民間からと自助努力を原則とするが、個人、法人を問わず、芸術を支援する人たちを支援するための新しい法律や制度を考えており、それがどういう在り方がいいのかということを問題にしたかったようである。
 ロバート・ウィルソンはアメリカの支援制度の在り方を説明したが、私は現在の舞台芸術活動において、いちばんの重要課題は教育問題であり、これを商業資本に依存しすぎると芸術作品の画一化が進行するので、公的な機関の支援が必要だし、今後それは多国籍の教授陣による国際協同的なものがよいという考えを述べた。
 懇談の中で、プーチン大統領は特別に日本との関係にふれて、日本ではチェーホフがよく上演されているようだが、ロシアで日本の演劇はほとんど知られていない。自分は若いころから演劇が好きだったので日本の演劇をもっと知りたいし、政治経済の交流だけではなく、創造的な力の交流が必要だと力説した。ロシアはかつて舞台芸術の世界的なメッカの一つであった。再びロシアがそのように再生してくることを予感させる会見であった。
 シアター・オリンピックス国際委員会は、これからの国際協同的な事業は舞台芸術家個人によるだけではなく、劇場同士の長期的な交流を前提とすることが大切だと考えている。舞台芸術は劇場という場に支えられて成立する活動だから、劇場の運営の仕方や技術上の水準等を含めた総合的な見地から、最良の交流や共同企画は何かを考えざるをえない。
 日本の劇場の多くはいまだに貸し出しを中心とした運営である。劇場自体が芸術的な企画力をもち、それを実現できる人材を確保できていないと、日本の舞台芸術は世界の新しい潮流からさらに遅れることになるだろう。
 
2001年、東京新聞6月14日夕刊より

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January,27,2018

新しい演劇人

 ギリシャの演出家、テオドロス・テルゾプロスは優れた演出家というだけではなく、たいへん面白い発想を持っている組織者でもある。
 彼はヨーロッパ文化発祥の聖地ともいうべきデルフィで、古典劇を中心とした世界演劇祭を主催しつづけてきた。彼はヨーロッパ文化の中核的存在ともいうべき演劇が、現代社会の中での存在価値を弱めていることに関して、その原因をこう指摘する。
 現代演劇の衰弱を新しい演劇や理念の出現がないことに理由があるという人がいるが、それは違っている。演劇人という独特な性格を持った人間のイメージが見えなくなってしまったからだ。
 彼に言わせれば、演劇人とは劇作家でも俳優でも演出家でもない。演劇人とはそういう分業化した職能に従事している人たちの個人の別称ではなく、演劇という集団作業の全体にかかわり、かつ対応できる総合的な能力を備えた人だというのである。
 たしかに演劇人というものは劇作家や俳優や演出家をプラスしてできるものではない。そういう人たちも本来は演劇というものが好きだから演劇活動に参加したのであって、その集団作業の全体の中でたまたま劇作や演技や演出を担当したのにすぎないだろう。
 芸術上の観点からすれば、集団作業としての演劇にかかわっているすべての人は、演劇人として存在しているのだというのはうなずける。実際のところ、俳優をしながら演出をしたり、演出をしながら制作活動や衣装や装置のプランを考えたりという人は多いのである。
 テオドロス・テルゾプロスはこの演劇人というものの性格とイメージを、もう一度とらえかえしてみる必要があるというのである。それができれば、演劇人というものが、複雑な組織機構を形成した現代社会の内で、いかに重宝で大切な人たちであるかということが明らかになるはずだというのである。
 演劇はギリシャにその発生をみて以来、二千年にもわたってその活動を持続してきた。この活動によって人類は人間へのものの見方、理解の仕方を鍛え、かつ人間の身体とともにある生身のエネルギーの素晴らしさを目の当たりにしてきた。ただそのまま使用すれば、自他を傷つけ滅ぼす暴力になりがちな生身のエネルギーをよく飼いならし、洗練し、人間関係を豊かにするものにしてきた。
 しかし、近年の電子情報社会の到来によって、この生身のエネルギーの価値を軽視する傾向が浸透しているのも事実なのである。この時代の傾向は、生身のエネルギーへの信頼を前提に、集団作業として成立する演劇の存在理由を軽視することにもつながりつつある。
 こういうことをも踏まえてテオドロス・テルゾプロスは、演劇の新しい可能性を追究しようと世界各国の演劇人の幾人かに共同事業を呼びかけた。それがシアター・オリンピックスという催しの発端である。
 最初のシアター・オリンピックスは1995年にギリシャで、その次は1998年に日本で開催することになった。私もアメリカのロバート・ウィルソン、ドイツのハイナー・ミュラー、ロシアのユーリー・リュビーモフなどとともに、11人で構成される国際委員の一人だが、日本での開催は静岡県になった。
 日本は現在、世界でもっとも進んだ文明の地である。文明国とは生身のエネルギーを非動物性エネルギー、電気や石油や原子力のエネルギーに代替させ、コミュニケーションや管理のシステムを発達させる特質がある。
 日本の演劇界はこの文明化の極致とでもいうべき東京に依存し存在しているのだが、その結果、演劇ひいては文化の本質とでもいうべき生身のエネルギーの力を見失って、人間そのものの魅力を小さいものにしてしまっている。
 こういう日本の演劇の偏りを具体的に検証できる地方で、シアター・オリンピックスが開催されることは時宜をえていると喜んでいる。
 
1993年、東京新聞12月24日夕刊より 

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November,04,2017

「サド侯爵夫人」

 私は三島由紀夫という人間には、変わらぬ興味をもっているけれど、生前の彼の演劇活動には、それほどの興味をもてなかった。ことに歌舞伎に関する仕事は、その言説とは反対に、評価できなかった。また三島作品を演出したこともない。これからもあるかどうかわからないが、「サド侯爵夫人」だけは例外である。その理由は二つある。一つは、この戯曲が舞台上で語られる書き言葉の成果として、日本の演劇史上、頂点をきわめていること、もう一つは、古典的な意味での芸術家と批評家との関係を描いた記念碑的作品だと思えたことによる。
 昨今の演劇界では、舞台上で語られる言葉=セリフは、日常の会話らしくあることが肝要で、それが劇作家の仕事だと錯覚している人が多い。しかし、舞台上の会話は、日常会話の再現でも模倣でもない。演劇という歴史性をもった表現形式を踏まえて、会話という形式の中で、人間がかかえている諸問題を顕在化させたり、その成り行きを解明したりするものである。この「サド侯爵夫人」に書かれている言葉=セリフは、会話風ではあるが決して日常で見聞される類いのものではない。ものごとを指示したり、描写したり、心情を吐露したり、相手の言葉に反応してみせたり、偶然的な発語に身をまかせたりする類いの言葉ではない。要するに、相手というものが存在しなければその言葉の生命を維持できない現実的な言語場を想定させるものではない。ここにある言葉のほとんどは、思考というものに集中した人間の持続によってしか生み出されない内面の言葉であり、会話風にみえているところも、ひとつの主題をめぐってなされる論理的な対話である。対話とは、明確な主題が共有されている上でなされる論理的な討論であり、それはひとりの人格のうちにも起こりうる思考の形態である。だから、それらの言葉は、孤独である人間のうちからもっともよく発想され、生み出される。日常では絶対に話されない言葉を、日常でも起こりうる現場の会話であるかのようにリアリティを付与してみせたのが、三島由紀夫の見事な演劇への力量である。
 戯曲「サド侯爵夫人」は、現在の演劇界で上演するのはむずかしいし、上演されれば必ず、この戯曲を裏切ることになるというのが定説のようである。この書き言葉=セリフに対応する演技が創り出されていないことを前提とした言である。この戯曲を上演してきた新劇界の実情からすれば、うなずけないこともないが、もしそうだとしたら、ヨーロッパ演劇を範としてその表現のスタイルを形成してきた新劇の悲劇を、これ以上に意味するものはないばかりでなく、文学というものの伝統や歴史性に、新劇人がまったく孤立して存在するようになったことを意味している。書き言葉を見事に視聴覚的に構成して、人間の見えない部分を顕在化すること、これが俳優の演技という仕事であり、ギリシャ悲劇以来のヨーロッパ演劇の伝統である。そしてヨーロッパ演劇の主流は現在でもすぐれた書き言葉を生み出しつづけること、それはとりもなおさず、孤独な表現者としての劇作家の存在を確認することになるのだが、その点において確固たる存在理由を示している。私がギリシャ悲劇を好んで上演するのも、それらの作品が日常会話から垂直的に屹立していて、演劇における書き言葉の力を示した始源の形をとどめているからである。
 たとえば、エウリピデスにギリシャとトロイアの戦争をあつかった「トロイアの女」という作品がある。ギリシャ軍の勝利の後、トロイアの男はすべて殺され、王妃ヘカベ以下の女たちが、奴隷としてギリシャへ連れていかれるその直前の王家一族を描いている。エウリピデスはこの戯曲を実際にあった事件、ギリシャ軍によるメロス島民の大虐殺に抗議して書いたともいわれているが、この戯曲の主人公、王妃ヘカベは、ギリシャ軍に虐殺された孫を埋葬する場面で、こう語る。「神様方のお心は、ただ私を苦しめ、トロイアをば、とりわけて憎もうとなさることであったとしか思われぬ。牛をほふって勤めた奉仕も空しいことであった。しかしまた、神様がこれほどまで根こそぎに、トロイアを亡ぼされることがなかったら、わたしらは名も知られず、後の世の人に歌いつがれることもなかったであろうし……」。
 われわれの接する新劇的リアリズム、演劇を会話という言語場を現在形だけで生きる人間をあつかうものだとみなす観点からすると、これは実にふしぎな言葉=セリフである。もしヘカベという人物が実在の人物であったとしたら、一回性としてこのシチュエーションを生きている人間がなぜ、この悲劇がなかったら後世の人に歌いつがれることもなかったなどと言いうるのであろうか。これは現在を生きている作者の視点から書かれた言葉で、このセリフには、ヘカベと作者の二人の生きた時間が流れている。さらにこれを、二千年以上も経た現代を生きる俳優が演じるとなれば、三つの異なった時間が舞台上に流れることになる。そして観客は、その三つの時間が宿る舞台空間から、世界を見る見方を教えられたり、世界への批評性を獲得したりする。これこそが演劇という特異な表現様式のなかを生きつづける書き言葉というものの力なのである。そして、それは往々にして共同性を前提にして成立する社会に、何らかの異和感を確認した孤独な個人のメッセージとして書かれている。
 戯曲「サド侯爵夫人」に興味をもったもう一つの理由は、三島由紀夫という芸術家が、どのように芸術家というものを規定し、そうあるために何を必要としているかという願望が、実によく表現されていると思えたからである。端的にいえば、芸術家にとって理解者とは何か、この理解者を最上の読者あるいは批評家と言いかえてもよいが、それがどういう形で存在してほしいのかということを表明しているからである。芸術家と批評家という関係については、古来さまざまな言説がなされてきたが、その関係への芸術家の側からの見解がこれほど明確に示された例はないと思う。しかもそれが、演劇という形式を借りてなされたところに、この戯曲の特異性がある。
 三島由紀夫は「サド侯爵夫人」について書いた文章の中で、「サド自身よりも、サド夫人のうちに私は、ドラマになるべき芽をみとめた」といっている。また澁澤龍彦の「サド侯爵の生涯」を読んで、「サド侯爵夫人があれほど貞節を貫き、獄中の良人に終始一貫尽していながら、なぜサドが、老年に及んではじめて自由の身になると、とたんに別れてしまうのか、という謎」にもっとも興味をそそられたとも書いている。そして、このサド侯爵夫人の態度に、「人間性のもっとも不可解、かつ、もっとも真実なものが宿っている」とし、その論理的解明が戯曲『サド侯爵夫人』だというのである。
 三島由紀夫の言い方は、一見もっとものようにみえるが、これは一仕事を終えた後に俗耳に入りやすくその仕事を説明するためにひねりだされたサービスのような理屈にみえる。謎は興味として感じられたのではなく、創り出されたからである。その創り出した過程に、膨大な論理的言語を投入した、その結果がこの戯曲なのであって、その逆ではない。私には、女性が結婚という制約の中でなにがしかの役割を果たし、その夫が犯罪者となって獄につながれ、ようやく刑期を終えて出獄してきたら、もうこれで堂々と離婚ができると思うほうが、通常のように思える。現実の女性という観点で考えるならば、三島由紀夫が描いたサド夫人がサドが獄中で書いた「ジュスティーヌ」を読んだから離婚を決意するなどとは不可解である。そんな女性が本当に存在するかと思えるほどの驚きである。ましてや相手は老年の男である。粗大ゴミか痴漢にしかならない男の行く末を看取る義理はないと、側を離れたくなるのは当然で、むしろこういう女性の心理や行動を認めたくないとする三島由紀夫のほうに謎があるのである。
 芸術家という存在がどういうものであるか、実体としてだれも指し示すことはできない。たしかフランスのモラリスト、ラ・ロシュフコーの箴言に、恋愛とは幽霊みたいなもので、皆たしかにあるというが、だれも見たことがない、というのがあったと記憶する。芸術家も同じであろう。われわれは作品を通して、芸術家とよばれる特異な精神状態を生きた人を想定するだけで、芸術家とよばれる人たちの生きた時間を共有したわけではない。だから、芸術家という概念には、未知の世界を生きたり、既存の秩序の網の目をすりぬけるような非秩序を生きる人だという思い込みを可能にする。そしてその思い込みは、現状というものを否定するもっとも鋭い意識の持ち主が芸術家だという転倒を生み出してしまう。この思い込みを可能にしている芸術家という存在に、どのような実体を付与できるか、それには未知を生き、既存の秩序に収まらないものはこれだと立証してくれる批評家が要る。これにもっとも強くこだわったのが三島由紀夫である。
 戯曲「サド侯爵夫人」の第二幕で、サドとの離婚をせまる母親モントルイユ夫人に、ルネはこういうのである。「アルフォンスは譬えでしか語れない人なのです」。それに対してモントルイユ夫人は「お前は共犯になったのだね」という。そして、しばらく母と娘の夫の評価をめぐっての諍いがあった後、娘は母親に向かって「あなた方」というのである。このときモントルイユ夫人はさすがに「母親に向って、あなた方とは何事だい。かけがえのない母親に向って」と激しく応酬する。すると、娘は決定的な一語を発するのである。「あなたはあなた方の一人にすぎませんわ」。
 私はこの場面を読むと必ずある光景を思い出す。それは、地下鉄サリン事件を起こす以前のオウム真理教の信徒が、両親と対決する場面である。テレビで見たのだが、オウムの信徒になって家を出てしまった娘の両親が、麻原彰晃に娘を家に戻してくれるようにと記者会見をしているところへ、当の娘たちが記者会見を中止しろとのりこんできた場面である。娘たち二人は両親に向かって、私たちは欺されてはいない、やめろ、やめろ、とどなるのである。そのときの両親の、息をのんでまじまじと娘たちをみつめる顔を、いまでも忘れることができない。このとき両親ははじめて、娘たちは欺されたのではなく、共犯になったのだということを感じたのであり、両親は娘たちにとってかけがえのない存在ではなく、新聞記者と同じように「あなた方」だったということを思い知らされたのである。
 三島由紀夫は、芸術家としての自分の最良の理解者である読者あるいは批評家は、作者と共犯でなければいけないといっている。侯爵夫人ルネは母親モントルイユの、サドという人間の真相はすべて鞭とボンボンに表れているという言葉に、「それは知識」だという。それはあなた方の理解だと。では、知識でないものとは何か。あなた方のような複数ではなく、固有の存在として生きているものとはどういうものか。それが比喩でしか語れない芸術家の本質というものだという思い込みを論理化するために、サド侯爵夫人ルネに謎が付与され、貞節という手垢にまみれた精神的な観念が光り輝くかのように登場してきた。純粋な生を希求する精神活動の根底には、必ず絶対者の秩序を想定する欠如というものがあり、この欠如を欠如として鋭く自覚したものだけが、固有なものを真に理解する貞節を生きると、三島由紀夫はルネを借りて語っている。この当時の三島由紀夫に必要だったのは、自らを真正の芸術家として立証してくれる共犯者としての批評家だったといえるかもしれない。
 ならば、よき理解者としての批評家は作者に会う必要はない。不可視の本質というものに、じかに結びつくことが精神の貞節だとする三島由紀夫の考え方からすれば、作品を通じてその本質に触れればよいのである。サドへの真正な理解者、批評家に成長したルネが、老いさらばえたサドに会わなかったことこそが、芸術家というものに対する批評家の古典的な態度=貞節であったということになろうか。この点については、三島由紀夫じしんがそう思っていたかどうかは、この戯曲を読む限りでは定かではない。
 
2003年、「内角の和・Ⅱ」より 

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April,29,2017

民族主義的な痴漢

 男は年をとると、粗大ゴミか痴漢にしかなれないのかね。久しぶりの同窓会。中学の頃、小生意気な女として、男の悪口を言うことで評判だった女性が私に言う。相変わらずだと思いながら私は応える。偉大な芸術家として名を馳せた人は、年をとらなくても変態が多いよ。彼女は理解不能という顔をする。
 粗大ゴミや痴漢、このように見なされる男は否定的な価値の人間だが、しかし、これらの男たちの中には、それを自慢する人もいる。粗大ゴミや痴漢にも、立派な存在理由はあると、その存在の価値を声高に主張する人がいるのである。しかも、オドロクベキコトニ、女性の中にはその価値を理解し信じ、自ら身を寄せてくれる人もいると言う作家がいる。三島由紀夫などはその一人である。女性には迷惑なことでもあろうが、粗大ゴミや痴漢は、そうした女性の存在によって社会的に救われるらしい。
 三島由紀夫の「サド侯爵夫人」は、サド侯爵という煮ても焼いても食えない粗大ゴミが、如何に一人の女性を精神的な高みに誘い、強い人間として生きさせたかを描いている。その女性たるや、変態で身勝手な男、それを三島由紀夫としてもよいが、彼の創り出す理屈の中に夢のように浮かんでくる。男の粗大ゴミ性は女性によって、その価値が立派に保証されている。
 谷崎潤一郎の作品に登場する男の主人公たちは殆ど痴漢である。そしてこの痴漢も、その存在理由を女性の心情に依存して主張される。あろうことか、痴漢に随伴して人生の辛酸をなめる女性は、男にとって聖母マリアのようなアリガタイ存在なのである。「或る調書の一節」では、痴漢が如何なる女性によって精神の安定を得ることができるか、三島由紀夫と同じような理屈が執拗に語られる。女性は強い、粗大ゴミも痴漢も、女性の強さによってこそ、その価値を証しすることができるとされている。
 三島も谷崎も世間一般からすれば、まさしく変態なのだが、三島は男の変態としての価値は所属する国家や民族の違いを超えて、ユニヴァーサルな理解を得られると主張する。谷崎は変態には色濃く民族性が反映すると説得しようとする。
 いずれにしろ現在の女性たちから見れば、旧い日本の男のタワゴト、彼らの屁理屈が世の中を悪くしているといった種類のものかもしれない。確かに「お国と五平」に見られるように、谷崎作品に登場する痴漢の堂々たる言い分には、苦笑しながらも感心せざるをえないところはあるのである。
「手ざはりの快感に於いても、(少くともわれわれ日本人に取つては、)東洋の女が西洋に優つてゐると云ひたい。西洋の婦人の肉体は、色つやと云ひ、釣合ひと云ひ、遠く眺める時は甚だ魅惑的であるけれども、近く寄ると、肌理が粗く、うぶ毛がぼうぼうと生えてゐたりして、案外お座が覚めることがある。それに、見たところでは四股がスツキリしてゐるから、いかにも日本人の喜ぶ堅太りのやうに思へるのだが、実際に手足を摑んでみると、肉附きが非常に柔かで、ぶくぶくしてゐて、手答へがなく、きゆつと引き締まつた、充実した感じが来ない。/つまり男の側から云ふと、西洋の婦人は抱擁するよりも、より多く見るに適したものであり、東洋の婦人はその反対であると云へる。」<恋愛及び色情>
 欧米人にそれほど多く接しているとは思えない谷崎が、こう言い切る根拠を私には理解できないのだが、痴漢にも民族主義的な妄想というものがあり、それが谷崎潤一郎をユニークな日本的変態=芸術家にしていると了解はするのである。
2016年、「谷崎潤一郎全集 第9巻」月報

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February,21,2015

若者へのメッセージ

 中国の俳優たちと一緒に仕事ができて、大変幸せである。若い人たちがほとんどだが、感受性の柔軟さと身体の中に存在している遊び心の豊かさに、私は稽古場で新鮮な喜びを味わっている。
 アジアの演劇は、古い伝統的なものにはヨーロッパのそれと比較しても優れたところが多々あると思う。しかし、現代劇に関していうと、ヨーロッパの演劇の力量を認めざるを得ないと思っていた。それは、アジアの演劇人がヨーロッパから新しい演劇の考え方を学ぶだけではなく、優れた過去の演劇的蓄積を現代劇に上手に利用できなかったことに起因している。私は、日本や中国の過去の演劇的力量をヨーロッパの演劇の考え方と融合させると、世界各国の人々が驚き、賛嘆するような舞台を創ることができると考えてきた。この「シンデレラ」の舞台は、そうした私の考えによって創られたもののひとつである。
 その内容は、シンデレラと呼ばれる孤独な少女が憧れ、自分を幸せにする王子などという結婚相手はいないと宣言するものである。自分が住んでいる貧しく苦しい環境を逃れることだけを目的に、ひとりの女性が生きるわけにはいかない。たくましく自立して、自力で自分の欲望を実現するような人生を生きなければならない。しかし、長年にわたって形作られてきた男性中心社会の価値基準の中では、その考え方、想いは自分の心や人間関係にいろいろな摩擦を生む。その摩擦の中で生きる少女の心の揺れを劇中劇として展開させたものである。
 この舞台が、激しく移り変わる現代社会の中で、生きる希望を見失ってしまいそうな若者に、自立して生きていくことへの励ましを与えられるものになっていることを願っている。
2014年、「シンデレラ」上海公演のパンフレット

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December,31,2014

「からたち日記由来」の試み

 一軒の古ぼけた家に三人の家族が住んでいる。三人は昔、チンドン屋で生計を立てていたが、今や母親は発狂、息子と伯父はその母親の世話をする毎日である。母親はチンドン屋として活躍していた頃の演奏と、その音楽に合わせて観客に聞かせていた講談「からたち日記由来」を忘れることができず、毎日一度は、狂ったように「からたち日記」という流行歌を歌い、その作品の由来を語りつづける。
 実際の戯曲では、ただ一人の講釈師が、昭和の時代に流行った歌「からたち日記」の歌詞が、誰によって書かれたのかを語るだけである。上記のようなシチュエーションと人間関係を舞台上に設定したのは、演出上の私の発想である。
 この戯曲の主人公が歌う「からたち日記」とは、次のような恋愛の歌詞になっている。<心で好きとさけんでも、口ではいえず、ただあの人と、小さなかさをかたむけた、あの日は雨、雨の小径に白いほのかな、からたち、からたち、からたちの花>
 作者によれば、この歌詞自体は実在の一人の女性によって、すでに大正時代に書かれていた。その実在の人物とは、第二次大戦終了まで存在した、天皇に政治上のアドヴァイスをする貴族を中心とした合議機関=枢密院の副議長、芳川顕正伯爵の娘、芳川鎌子だとされている。
 鎌子は、結婚して一人の子供を生んだ。しかし、夫との家庭生活に不満を感じた彼女は、芳川家の専属の運転手と恋愛関係になってしまう。二人は列車に飛び込み死のうとするのだが、芳川鎌子は生き残る。その彼女が出家して書いたのが「からたち日記」の歌詞だというのである。
 芳川鎌子の心中事件は実際にあったことである。しかし、彼女は出家などせずに、事件後には再び結婚し、29歳の若さで病気により死んでいる。また、この戯曲に書かれている時代背景は、歴史的な事実関係としては、随所に辻褄の合わないところがある。だからこの戯曲は、芳川鎌子という実在の女性をネタに、一人の人間が妄想した記録に近いと言えるかもしれない。
 むろん、ギリシャ悲劇でもシェイクスピアの戯曲でも、それらしい事実を材料にした妄想だと言えないこともない。それらの西洋の作品に比べれば、「からたち日記由来」に表出されている妄想の世界は小さい。しかし、この戯曲には、通俗音楽として一部の人々に蔑視されてきた歌謡曲が、なぜ日本の女性の不幸や寂しい願いごとを歌詞にして大衆に愛されてきたのか、その歌謡曲に思いを託す以外に行き場所のない心情が、よく描かれていると思えたので、冒頭に記した仕掛けを舞台上にほどこし、上演することにしたのである。
 「トロイアの女」では、非運にあった女性の怒りや恨みや悲しみが前面に激しく躍り出てくるが、そういう個人の存在や心情すらも、小さく惨めに感じさせてしまう歴史的時間の非情さを、舞台上に存在させることを演出的には試みている。この視点は「からたち日記由来」でも同じでないことはない。
 しかし、同じように空しい人間の存在と境遇を描いたとはいえ、戦争によってすべての家族を失った老婆と、世間の目から隠れて恋心に生きた女性に思いを託す老女の不幸の質は異なっている。一人はホームレスとして、一人は狂人として、孤独に生きるが、世界中が戦乱の渦中にあり、人間関係の絆も崩壊しつつある時代に、この二つの対極にあるように見える人生の末路は、現在の我々にとっても、無縁なことではないと思っている。
2014年、「からたち日記由来」初演の演出ノート
 

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October,27,2013

幻想の天使

 一昨年に舞台化した長谷川伸の「瞼の母」を、定期的に上演できる、より完成された作品にしたいと考え、新しく創り直してみた。今回は息子を想う孤独な母の心情の方に焦点を当てている。その心情を透かして、日本人の心の在り方の一つの特性が浮き出るようにした。
 相変わらずシチュエーションは病院か養護施設である。ということは、死ぬ直前あるいは意識が不明晰になりつつある老女の幻想や回想を通して、舞台が展開されていくということである。
 長谷川伸が肯定的に描いている主人公のヤクザは、日本人と言う名前にしてある。長谷川伸が理想の人間的心情を身につけているとした男を、母親が懐かしみながらも、ついに手にすることのなかった日本のシンボルのように扱っている。むろんこんな日本は、とうに無くなっているし、馬鹿らしいものだという見解もあるだろう。たとえそうだとしても、一時期の日本人が、どんな境遇に在り、その境遇を真面目に生きようとして、どんな喜怒哀楽の感情を味わったのか、それを知っておくことはムダではないと思うのである。それでなければ、この舞台の原作が、大衆演劇の金字塔のように見なされ、多くの日本人の感情を揺り動かすこともなかったはずである。
 東日本の大震災から既に2年も経っている。今だ30万に及ぶ人たちが故郷や家族の行く末を想い、不安な日々を送っている。もちろんその人たちの中には、既に新しい希望ある人生に向かって、旅立った人もいるだろうが、大多数の老人たちにとっては、生きる希望は回想や幻想に浸ることによってしか存在しないと思える。
 天使の声は地獄にいる人の声だ。フランツ・カフカの言葉である。確かに看護婦は白衣の天使として、もはや人生に明日のない臨終の人が最後に見る幻想の人間である。私の経験からしても、実際の看護婦が天使であるとは言い難いが、ソウ、アッテホシイ、と願う心情は絶えることもなく存在することは確かだろう。
 声だけではなく本当に天使のように思える人間が、この日本の不幸な人たちの前に、一瞬でも現れることがあるのかどうか、そんなことを考えさせられる昨今である。
2013年8月、「新釈・瞼の母」演出ノート 

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April,01,2013

演歌について

 私が若かった頃、1960年代の末には、鶴田浩二、高倉健、藤純子などが主演するヤクザ映画というのが、大変な人気を博していました。主人公は「任侠道」に生きる人間で、もともと「任侠道」というのは中国から入ってきた考え方です。世間の多くの人たちの生き方からは外れた、「アウトロー」と呼ばれるような人たちの生き方や、心の中にこそ、人間関係を配慮した本当の人の道、というものがあるのではないか、というような主張をしていました。日本が工業化・都市化する過程で生み出した弱者の心を励まそうとする映画で、社会的に虐げられてはいるけれども、心は強くあろう、というような人たちに励ましを与えるものでもあった。ある種の演歌は、そういう精神のありようと響きあうものを持っている、と思います。ですから、演歌には、濃密な人間関係に基づいたコミュニティや、中間集団の中で共有されてきた弱者への道徳的感情が流れています。
 もちろん、私たち日本人は、明治以来、ある意味では前近代的な人間関係を近代化しなければいけない、という考え方をもって、この一世紀を生きてきました。ですから、現在の若い人たちの歌は違っています。ツイッターのように、孤独な人のコミュニケーション欲求を充たす呟きになっています。弱者は必ずしも孤独になるとは限らないのですが、現代社会では弱者はおおむね孤独になります。
 私も、演歌のすべてが好きだ、というわけではありません。ほとんどバカバカしいと思っているところもある。それでも、芝居の中で使うのは、そのバカバカしさの中に、現代人が抱いているさまざまな弱者の願いや妄想を読みとることができるし、その心情を通して、ともかく、一生懸命に、本気になって生きようとしている人間の姿を映し出すことができるのではないか、と考えているからです。若い人たちには、現実の世界ではほとんど見られなくなった人生の在り方を、舞台上の俳優を通して感じとってもらえたら、生き方の参考になるのではないか、と思ったわけです。
 
2010年12月、「利賀から世界へ」3号<「新・帰ってきた日本」上演後のトーク>より

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January,09,2012

古典の演出について

 日常では決して見ることのできない光景を舞台上に出現させながら、日常世界を生きる人間の孤独や不安や苦悩を可触的にする。そういう演劇を創り出したいと、これまでずっと演出に専念してきた。そのために私の舞台では、日常では出会うことのない物たちが共存したり、場違いと思われるような音楽が突然流れたりする。
 たとえば、チェーホフの「イワーノフ」では、登場人物のほとんどが籠に入っている。入っているというより、主人公以外のすべての人物は、籠に首と手足が生えている生き物として登場し、主人公と議論する。ギリシャ悲劇「オイディプス王」では幕開きから幕切れまで主人公は車椅子に乗り、地球を思わせる絵の描かれたキャンバスの上をグルグルとまわりつづける。フランスの名戯曲として名高い「シラノ・ド・ベルジュラック」の装置は、葬式を思わせる白い花畑である。登場人物たちはすべて幕末から維新のころの日本人を思わせる衣裳をまとって、その花畑の前後を動きまわる。そのバックに流れる音楽は、ヴェルディ作曲のオペラ「椿姫」の中のいくつかの曲である。要するに日常的に出会う光景として、舞台空間を統一してはいないから、日常生活を生きる感覚からすれば、この場所は不自然であり、物や音楽は戯曲が描く人物が生きた空間と比較するとミスマッチとしか言いようのない出会いかたをしている。
 なぜ戯曲の登場人物たちが生きている日常に近い舞台空間を作り、その環境のなかで俳優に演技をさせないのかと疑問に思う人は多いだろう。とくに日本人は、日常生活の見慣れた空間で繰り広げられる人間関係がドラマの前提だと見なしているから、その感じは深いと思う。しかし、私の演劇の考え方とその活動はこの演劇への考え方を否定するところに成り立っているのである。演劇は日常では見慣れない光景を舞台上に展開することによって、我々が生きている日常をあらためて考えさせるものだというのが私の考えなのである。とりわけ古典戯曲を演出する場合に、私はこの観点を後生大事にしてきた。
 演劇で大事なことは、作家が書き、俳優が語る言葉が、今初めて聞くような新鮮な印象をもち、その言葉を通じて、その作家が我々に伝えようとしたメッセージが、考えるに値するものだという感じを起こさせることである。優れた劇作家は他人に聞いてもらいたい強いメッセージをもっている。とくにヨーロッパの劇作家は、演劇という歴史的に形成された表現形式を使いこなして、人間の生き方はこれでよいのか、私は人間をこう理解しているがどうか、という問いを投げつけている。それは往々にして人間の不可解さに基礎をおいた人間の惨めさや哀しさの感覚への考察になっているのだが、なぜ人間は、生きながらこういう感覚を味わうのかという問題提起をしている。観客はその問題提起にふれることによって、いま現在の自分の人生や社会について考える。優れた古典戯曲はこのメッセージの故に、現代を生きている我々の心の琴線に触れてきたのである。
 この作家のメッセージを鋭く浮かび上がらせるために、演出家は何をすればよいのか。おそらくそれは、その言葉を語る俳優が、我々が送っているような日常生活の光景の中を生きるのではなく、舞台でなければできない人工的な空間で語り生きるべきだというのが私の見解なのである。その場合に大切なことは、その作家が生きた当時の時代的、空間的な特殊性を視聴覚的に現代に翻訳しないことなのである。俳優の演ずる空間が劇作家の生きた時代がもたらす制約に忠実になるのではなく、劇作家のメッセージを現代に生かすための制約、劇作家の言葉が最も有効に機能する空間の作り方に誠実でなければならないのである。そのためならば、創造力としての想像力は、時代や日常空間の制約からどれだけ羽ばたいても羽ばたきすぎることはないと考えるのである。
2006年、「東京新聞」9月9日朝刊より

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November,19,2011

貴重な出会いと経験

 私が生まれたのは静岡県の清水市、暮らしたのは中学時代から東京である。1976年に初めて利賀村を知り、それから現在まで私の主要な活動は、この地を中心にしている。
 当時の利賀村の人口は1500人ほど、過疎と呼ばれる小さな自治体であった。気候は季節によって寒暖の差が大きく、冬は激しい降雪がある。それまで私が育ち生活していた環境と比較すれば、あらゆる面で対照的かつ異質であった。
 私がこの利賀村を、活動の拠点にすると公にした時には、多くの知人友人から反対された。その活動は失敗に終わるか、長くは続かないという理由に因る。演劇活動の環境は都会がふさわしく、過疎地では成立はしないというのが、当時の常識であるから、当然のことと言えば当然である。地域の人たちがその活動を理解し、受け入れることはない、また経済的に成り立たないから、劇団という組織は自ずと崩壊するというものである。
 常識、人生を持続するためには、この観点は必要なことである。しかし、常識をよく知り大切にすることと、それを後生大事と守り、人生や活動の指針とするということとは違っている。我々の仕事は、人々に常識を越えた驚きを与えながら、その驚きの実質を支持してもらうことに、その活動の本質を置いている。常識との闘い、そのために常識をよく知る必要があるということである。だからこれは、非常識を生きるということではない。
 実際のところ、利賀村での活動の初期は、すべての経験が初めてのもの、ほとんど未知の世界に降りたった感のあるものだった。毎日毎日が不安と戸惑い、利賀村の人たちの考え方やものの感じ方とのすれ違い、それによる諍いの連続であった。人間関係を成立させている前提、組織や行政の仕組みが、私がそれまで生きていた環境とは、まったく違っていたからである。それを理解し、あるときはそれに変更を迫り、あるときはそれを受け入れる、しかも活動の目標を失わないようにする、このために使った精神的、肉体的なエネルギーは膨大なものだったと、今振り返ると思うのである。
 東京に活動の拠点を置いていた頃、私の周囲にいたのは、私の活動を理解し好意を寄せてくれる人たちであった。人間関係がもたらす不安や戸惑い、また経済面での不安定を解消するために費やすエネルギーは少ないものだった。しかしそのことによって、私自身や劇団員に、異質な世界を生きる人間が存在することへの鈍感と理解の欠如、未知のものと戦ったり共存することへの弱さ、また経済的な成長や安定が、人生の主要な目標であるかのように見なす価値観が発生しだした。これは芸術家の精神への危機であった。
 私や劇団員に訪れた危機を乗り越えるための、貴重な出会いと経験、それを与えてくれたのが利賀村での活動だったと言ったらよいだろうか。利賀村の人たちも我々も、よく頑張ったのではないかと思う。
2011年、「北日本新聞」11月11日朝刊より
 

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