SCOT SUZUKI's Works / 鈴木忠志の作品

エレクトラ / Electra

原作 フーゴー・フォン・ホーフマンスタール Hugo von Hofmannsthal
初演 1995年 利賀 野外劇場

演出ノート
妄想の顛末・オレステスを待ちつつ
 ホーフマンスタールの『エレクトラ』は戯曲として演劇の舞台のために書かれたものである。初演は1903年で、マックス・ラインハルトの演出によってドイツで上演されている。いまではリヒャルト・シュトラウス作曲のオペラの原作として有名である。最近では、ほとんどオペラでしか接することができない。
 ギリシア悲劇を下敷きにしたこの戯曲の特質は、アトレウス一家の女性たち、当主のアガメムノンを殺した妻クリテムネストラとその娘の二人、エレクトラとクリソテミスという三人の心情を、現代人にも説得力あるものとして描きわけているところにある。すこし冗漫ではあるが、狂気というものの萌芽はこういうところにあるのかと想わせるところは見事なところがある。世界は病院であり、すべての人間は病人である、という私の舞台作りの発想からすれば、いささかぴったりのものであるが、その印象をもたらす最大の要因は、この三人を閉じられた「家」という状況のうちにおき、それぞれの想いの違いを克明に描いたところにある。その想いは会話のなかに表れてくるのではなく、ほとんど独白という形で激しく語られてくる。そしてその内容はすべて不在の息子であり兄弟であるオレステスの生存と帰還をめぐってなされているのである。そのためもあって、副題を「オレステスを待ちつつ」にしたのだが、ともかく、この女性たちの存在の現在と未来は、不在のオレステスとの関係のあり方に規定されている。一人は息子に殺されることに脅え、一人は弟が母を殺してくれることを願い、一人は兄が死ぬことによってこの状況が変質することを夢想している。
 人間は解決不可能な状況、この場合は三人の女性たちが捕らえられている状況だが、さらにそれに、病人として隔離されている数人の男たち=コロスを加え、その状況を変更しうる力が自分自身に欠落していると感じているとき、人間はどのような精神状態と言動を展開するのか、それをもっとも鮮明に舞台化できる方法は何かを追求したことが、今回の演出の一番の眼目である。
 その結果は相も変わらぬ、車椅子と看護婦の大々的な出場ということになったが、この舞台だけの独自の演出手法も導入してある。打楽器による生演奏が加わったことである。かなり激しい打楽器の音と、開幕から最後まで打楽器奏者が舞台に存在していることである。打楽器の音とともに俳優たちは激しく動き回るが、その音は動きの伴奏ではなく、彼らの内面の叫びとして空間に飛び出し充満する。だから、すべての登場人物の動きを導き出す演奏家の身体も、この舞台の主役の一人になっているといってもよい。おそらく演奏者がこれだけ主役の俳優として存在した舞台は、世界の舞台の歴史の中でも珍しいのではなかろうか。
 狂気=妄想の世界の造形であるから、果てしない独白のように聴こえる言葉だけではなく、終わりのない時間を走り続ける円を描く動きの連続の舞台のようにもなっている。またそれだけではなく、動く人、語る人、奏でる人、それぞれが独立して存在しながら、絶妙な調和ある空間を作り出す日本の舞台芸術の伝統の現代化をも試みてみた。伝統芸能の技術的成果を現代演劇に利用しようとする表面的な作業ではなく、衰退しつつある日本の歴史的遺産の再生作業だと理解していただけるなら願ってもないことである。

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