Works鈴木忠志構成・演出作品

サド侯爵夫人(第二幕)

三島由紀夫
初演
2007年 静岡県舞台芸術公園「楕円堂」

演出ノート

精神の「やくざ」について

 私が生まれたのは1939年、昭和14年である。日本が第二次世界大戦に敗れたのが昭和20年、私が小学校へ入学した年である。昭和という時代は60年以上も続いたから、私の人生の大半はこの時代とともに生きたことになる。そして私にとっての昭和は、三人の人の生き方とそれを支える精神力に強い興味をひかれながら生きた時代でもあった。
 もう三人とも不帰の人になっているが、焦土と化した国土の記憶を糧にしながら、経済大国としての日本に生まれ変わって行くその渦中を、激しく生きた人たちである。その三人とは田中角栄、美空ひばり、三島由紀夫である。私のひねった言い方で言わせてもらえば、三人ともそれぞれの領域におけるスターであり、「やくざ」である。「やくざ」とは世間的常識や偽善的な規範に啖呵をきって、自分の存在の正当性を有言実行する人である。そこには権力闘争の血なまぐささや、ヘドロのような人間関係や蟻地獄のような孤独が待ち受けている。それを承知で欲望のままに乗り込んで行くのだから、当然、非業の死ともいってよい死に方をする。実際のところ、一人は総理大臣まで務めながら逮捕され、かつ言語能力を奪われつつ死に、一人は暴力団の大親分をパトロンにし、大衆の期待を一身に受けながらも若くして奇病に倒れ、一人はノーベル賞候補にまでなりながら、自衛隊に殴り込みをかけて切腹といった具合で、並の人生ではない終わり方をしているのである。むろん、私はこの人たちに多大な興味と好感はもったけれど、その生き方に共感したわけではない。どちらかと言えば、困った人たちだというのが実感であった。
 にもかかわらず、私はこの人たちにたいへんな興味と好感をもちつづけた。それは自分の欲望を公然化し、それに殉ずる行動をひるまず実行する、常軌を逸した過剰なエネルギーの発露に親近感をもったからである。彼らの欲望にではなく、欲望に殉じようとする精神的情熱にウソがないと感じ、私もそうありたいとは思ったのである。
 1960年代の後半、私も精神上の「やくざ」を生きることを演劇において志した。そのころ三島由紀夫という先輩が、精神の「やくざ」にはいかなる存在理由があるのか、フランスの精神的な変態「やくざ」サド侯爵をネタにして見事な論理を、こともあろうに演劇の戯曲として展開して見せたのである。そして世界的な評判を勝ち得ていた。しかし戯曲を読む限りでは、三島が何にこだわったのか理解できても、実際の舞台ということとなると私の見たかぎり、三島の理屈はほとんど説得力を持って届いてはこなかったのである。だから私はいつか一度は、この三島由紀夫の理屈に本当に正当性があるのか、この戯曲はどう上演されるべきかに挑戦してみたいと思い続けていた。
 私は今春、静岡県舞台芸術センターの芸術総監督という役職を退任した。精神「やくざ」である一演劇人としての再出発を決意して、この偉大なる先輩「やくざ」に立ち会ってみたのが、この舞台だと思っている。テクストはほとんどそのままだが、演出的な処理は三島由紀夫の指定どおりではない。彼の好きな言葉をかりれば、これも演出家としての「男の意地」である。忌憚のないご意見をいただければ幸いである。