Works鈴木忠志構成・演出作品

イワーノフ

原作
アントン・チェーホフ
初演
1992年 水戸芸術館ACM劇場

演出ノート

自己正当化という物語

 物語を創造しようとする意志、あるいは物語ろうとする衝動の本質には、過去の出来事や行為を解釈し言語として構成し、自分の現在の生を自分にも他人にも意義あるものとして提示できるように変化させようとする目的がある。むろんすべての物語がそうした目的だけのために生み出されるわけではないが、物語作者の目標や狙いがどの辺りにあるかは、出来事や行為の選別とその解釈の仕方で見分けることはできる。今ここで問題にしている物語は、事実性を踏まえながら言葉として論理的に出現してくる自己正当化についてのそれである。
 ギリシア悲劇に読み取れるのは、物語が共同体あるいは社会集団の内部的結束を生み、強めるための手段として使われているということである。過去の出来事に対する見方を共有させることによって、共同体の構成員の所属意識の基準を明確にしようとする意志がある。所属意識の基準の明確化とは、今ある所属意識への批判を排除するということではないのは勿論である。エウリピデスは批判性においてその基準を強化しようとした作家である。
 ギリシア悲劇の作者とちがい、チェーホフは多くの人々によって共有される物語が存在しない状況を描く。集団を構成する精神的な価値基準、共有の物語が成立していない状況があぶり出される。物語は個人の自己正当化の手段、他人からの理解と同情を獲得し、自己の存在の正当性を承認させようとする孤独な手段として創られるだけである。人生の落伍者に見られる自己憐憫と他者への反撃のかたちである。その典型がイワーノフという人物である。
 この舞台は、イワーノフが自己正当化という物語を創る試みに失敗し、自分を取り囲むすべてのものに違和感を持ち、妄想にとりつかれて自殺するまでを扱っている。彼にとっては、自分の関わるすべての登場人物はコミュニケーション不可能な別の人種と感じられていく。私の舞台ではその局面を極端に強調したが、そのシンボルが籠や髭のついた鼻メガネである。
 イワーノフは封建的な社会を変革する運動に参加すると同時に、反ユダヤという人種差別への抗議の実践としてユダヤ人の女性とも結婚した。しかし運動はただの金銭の浪費に終わり、結婚は逆にイワーノフ自身に根深い差別意識があることを証明してしまう。若い娘への恋心を妻に非難されて発する「黙れユダヤ人」という言葉は、彼が美談として創ろうとした物語の終極の失敗の姿である。
 この舞台を創りながら、はたしてわれわれ日本人は日本人としての共有の物語を創ることは可能か、言い換えれば、共有しうる精神上の価値の目標を設定することは可能かなどと考えたりもした。われわれはイワーノフのように、自分の存在と人生を孤独で断片化されたものとして、時空間に放り出されていると感受するしかないのか、あるいは再び第二次大戦前から戦後の一時期のように、政治的に創りだされる左右の大きな物語にかかわらざるをえないのか、架空の一人物の言動からこんなことを考えさせるチェーホフは、私にとってやはり偉大である。