Works鈴木忠志構成・演出作品

桜の園

原作
アントン・チェーホフ
初演
1986年 利賀山房

演出ノート

ラネーフスカヤという物語

 多くの人たちは、人間は言葉が使いこなせるから、自分をより良く理解できるようになったと思っているかもしれない。しかし、人間は言葉というものを発明したがために、自分がわからなくなってしまったと言ったほうが適切だろう。言葉は人間関係を円滑、平和に維持するために個人を客観化することもあれば、その関係を混乱させたりするための個人の邪悪な武器としても存在する。しかしいずれにしろ、人間には完全な理解というものが自他共にないのだということを言葉がわからせてくれるのである。
 たとえば、一人の女が一生のあいだに出会う男、その関係はどれくらいの種類になるものだろうか。いやおうなく父親という存在はある。それから、夫だとか、恋人、愛人、友人、結婚していれば息子がいたりするだろう。こういう出会いのうちで、女は傷ついたり、自己欺瞞をしたり、自己正当化をしたりする。そして、そのことによって、いつも自分に対して不平不満を言いつづける人間になったり、逆に自分や他人への観察力を成長させ、醒めた人間になったりすることもあるだろう。
 そういう女が、過去の男との関係や出来事を回想し、言葉として表現しようとするとき、その女の内面には何が起こっていくのか。どこまでが事実で、どこからが脚色として歪められたり、誇張されているのか、またどこからが幻想なのか、第三者にはなかなか見分けがつかないだろう。そういう意味では、人間は言葉をもってしまったために、自分自身に対してさえも複雑な関係を生きなければならない存在になってしまったと言ってよい。いや、自分というような確固たる実体はなくなってしまったと言ってもよいかもしれないのである。
 むろん、人間は男でも女でも、人間関係だけを意識して生きているわけではない。一生をどう送るか、どんな仕事をし、何を目標にして生きていくのか、それに基づいて行動の仕方を決めたりする。そういう渦中でも、人間は絶えず言葉によって自己確認という座標の設定をしていかなければならないのである。ここに、個人の物語というものが誕生してくる。
 物語とは、自分の現在の状態を納得し、他人にも共有させたいために、過去の体験を整理し、一つの因果関係の連鎖のうちに繋ぎまとめようとする心理から発生してくる。当然そこには、自分が納得しやすく、かつ他人に共有しやすくするための体験の脚色、あるいは粉飾というものがまとわりついてくる。そのため第三者には、これらの言葉によって語られる内容は、むしろ事実から遠ざかっている幻想のように感じられることもある。それを言葉が作り出すウソだと見なす人もいるだろう。
 『桜の園』の主人公、ラネーフスカヤも、物語を作り出し語る。彼女の語る物語は、自分が他人に必要とされている人間であるという事実の捏造=幻想のように紡ぎだされる。彼女を必要とする他者とは、パリに存在するとされる愛人、病気の男である。この病気の男が本当に存在するかどうか、よく読むと、これは明らかではない。これまで私が見た多くの『桜の園』の演出では、この愛人は存在しているという前提で演技が組み立てられている。しかし、チェーホフの戯曲には、実際にこの男は登場しないのであるから、真偽の程は分からないのである。彼女は、男から来たたくさんの電報をもっているという人がいるかもしれない。しかしこの電報は、本物ではないかもしれないのである。トロフィーモフもそのことに気づいていながら、それをわざわざ指摘しないだけなのかもしれないのである。電報の中身まで仔細に検討して、それが偽物であるということを指摘するようなことをしないだけである。それを指摘しても建設的な意味はない。現在の彼女が置かれている状況に何らかの変化をもたらすことにならないからである。ラネーフスカヤの言動から読みとれる物語というものの特徴的なことは、物語は他人にとって嘘か本当か見分けがつきにくいということである。その物語を必要としている個人の心理は確かなものとして信じられるが、語られている内容の事実関係の真偽の程は分からないということである。物語を語っている本人にとって重要なのは、おそらく物語の語られ方で、内容ではない。
 人間は言葉をもってしまった以上、また完全なる人生などというものを享受することができない以上、どんな人もこの物語としての幻想を必要としているし、作り出していく。幻想を捨てたいという願いは、幻想を必要とする状況を捨てたいという願いである、とカール・マルクスは言っている。この言葉は人間の心理を分析する限りは正しい。しかし、人間にとっては幻想を必要としない状況などというものがありえないということが人間の生活であり、宿命でもある。もし幻想をもつこと自体を完全に捨てるとすれば、それは自殺することになる。そのことを言いつづけたのがチェーホフという作家であり、彼の他にぬきんでた演劇の特質である。