SCOT SUZUKI's Works / 鈴木忠志の作品

劇的なるものをめぐってⅡ / On the Dramatic Passions Ⅱ

作 鈴木忠志 Suzuki Tadashi
初演 1970年 早稲田小劇場

演出ノート
『劇的なるものをめぐってⅡ』について
 ここに収録された『劇的なるものをめぐってⅡ』は、1970年5月に早稲田小劇場で初演した『劇的なるものをめぐってⅡ―白石加代子ショウ』と、73年3月に早稲田小劇場で上演し、その後フランス、オランダでも上演した『改訂版白石加代子抄』から、あらためて構成したものである。現在の私が『劇的なるものをめぐってⅡ』を上演するとしたら、こうなるであろうというあり方にしてみた。従って、ここに収録されている各場面は一度は舞台化されたものではあるが、この構成で上演されたことはいまだない。初演時の『白石加代子ショウ』には、後半の二場面、岡潔のエッセイと鶴屋南北の『阿国御前化粧鏡』から引用した部分は入っていない。また、『改訂版白石加代子抄』は、『隅田川花御所染』の場面、清玄=白石加代子が面をつけ、出刃包丁を研ぐところから始まり、岡潔の場面をぬいて上演したが、そのあとの外国公演では、ここに収録されているような位置に、岡潔の場面を挿入して上演している。その異同についてもう少し詳しくふれると、岡潔と『阿国御前化粧鏡』の二場面は、初演の『白石加代子ショウ』と『改訂版白石加代子抄』を上演した間の時期、1971年11月に、早稲田小劇場で上演した『其の一・染替再顔見世』の舞台に入っていたものである。だから正確には、この『劇的なるものをめぐってⅡ』は、初演の『白石加代子ショウ』と『染替再顔見世』の二つの舞台をもとに再構成したものだといった方がいいかもしれない。
 ところで、『劇的なるものをめぐってⅡ―白石加代子ショウ』は、1969年から70年にかけて、私の構成・演出で上演した『劇的なるものをめぐって』三連作の二作めである。この三連作は、演劇の現場性=身体性を徹底的に強調しようとする試みであった。演劇とは舞台のことであり、舞台とは俳優の演技が中心的に背負う世界である、この自明なことがらをあらためて問いなおしてみようとしたのである。誤解なきように言っておけば、これは俳優という人間を特殊視したり、演技を特権化しようとする目論見ではない。むしろその逆で、演技とは果してほんとうに人間にとって必然性をもった衝動に支えられた行為なのかを、疑ってみた結果であるといった方が正確である。そのことを、他ならぬ舞台そのものによって明らかにすること、それがまた、人間存在の不可解さを開示する行為につながるのではないか、というのが私の思いこんでいたことである。だから舞台は、必然的に演劇論仕立てであった。『劇的なるものをめぐってⅠ』の副題が“ミーコの演劇教室”、『Ⅱ』が“白石加代子ショウ”となっているのは、そのためである。三連作のうちではこの『Ⅱ』が、日本のみならず外国においてもいちばん評価が高かった。その高い評価の大半は、私の意図に応えてくれた白石加代子の力に負っているが、これを早稲田小劇場十年の代表作とみなす人たちも多い。たしかに、上演回数、観客動員は多く、ジャーナリズムの反応もセンセーショナルであった。パリ公演に三度も通ってきたピーター・ブルックは、初演のときにスキャンダルは起きなかったかと私にきいたが、この舞台の幕開けは、ある種のスキャンダルから始まったといってもよい。
 “狂気女優”出刃包丁のアクシデント
<出刃包丁が彼女のノド元へ走った。その瞬間、眉間につっと赤い線が一本。と思う間に血が鼻筋を伝わってスーッと垂れる。彼女はケタタマしい笑い声を立て、さりげなく横を向いて血をぬぐった―まさに名人芸と思われたが、さらに血が流れ出して、初めて客は事故と知り、ギョッ! 早稲田小劇場の『劇的なるものをめぐってⅡ』の初日(5月1日)に起ったアクシデントである。
 この“血の主役”を演じたのは白石加代子、3年前まで都内の区役所の事務員だったが、一念発起して女優志願、『金色夜叉』のお宮の狂乱、『少女仮面』の狂女で評判となり、たちまち“狂気女優”のレッテルを貼られた。
 能面のような無表情から、ガッと顔をゆがめて黒目を寄せ、髪を振り乱して男をのろう。かと思うと、タクワンをむさぼり食って、パッと吐き出す。小屋が揺れるほどのたうち回った末、突然放心したように笑い出す。その形相や仕ぐさは、まさに異常。あまりのすさまじさに気の弱い客は震え出す始末だった。
 さて、その評価については、「これだけの迫真力を出せる舞台は少ない。これこそ劇的なるものだ」「いや、本物の出刃包丁なんて今は大道芸人だって使わない。邪道だよ」と劇評家の意見も真っ二つに割れているが、いまやアングラ芝居は命がけですな。>
 週刊新潮に掲載されたこの一文は、いささか誇張気味で面白くできすぎているが、初日に居あわせた他の観客の印象も、大かれ少なかれこれに近いものであったかもしれないと思う。むろんこの記事にもあるように、出刃包丁があたったのは全くの不慮の事故で、その後200回近い公演にも二度と同じことはなかったのだが、悪意ある劇評家や演劇人たちの格好の攻撃材料になってしまった。出刃包丁とタクアンの話は噂に噂をよび、毎日血を流し、タクアン一本を丸ごと食べてしまうかのように信じる人たちまで出たのである。あたかも、全共闘運動の最盛期である。ゲバルトなどということばが一般にまで流行りだして、世は騒然としていた。既成の、慣習化した表現方法を破壊するようなこの舞台の演出は、そういう状況に媚をうるものだとみられたのである。「あんなものは演劇でもなんでもない、政治的熱にうかされた一時的お祭り騒ぎにすぎない」とは、当時演劇界でもっとも権威ある劇評家の言である。なるほど、観客のうちには各大学の学生運動家や、その活動を支持する知識人たちの顔が多かったし、劇団のなかにも、少数ではあるが、活動家が存在していた。だからといってこの舞台を、政治的熱にうかされた一時的お祭り騒ぎの結果であるかのごとくみなすのは、私にとって悪意ある中傷としか思えなかった。なぜなら、政治状況やお祭り騒ぎからもっとも遠いあり方をする情念を扱い、それをみごとに顕在化させえたのが、この舞台だと自負していたからである。政治的なメッセージを伝えるわけでもない舞台、鏡花や南北という、その頃はまだ舞台から馴染みのうすかった作家たちの言語的断片を、白石加代子の肉体によって綴りあわせたこの『劇的Ⅱ』が、なぜ当時の学生活動家たちにまで支持されたのかは、既成演劇人の理解のワクを越えていたのである。ともあれ、これほど讃辞や中傷や誤解の対象になった舞台は、演劇界でもめずらしいのではないかと思う。そして中傷はほとんど匿名でなされたのも、おもしろい現象であった。
 初演当時、いちばん理解されなかったのは、この舞台のできあがる過程に関することであった。この台本を私が書いたと思った人が多かったのである。完成した戯曲作品があって舞台づくりを始めるのは、新劇界のみならず演劇界一般の常識であるから、そう思われても不思議はないのだが、正直にいって、こんな飛躍の多い構成台本をはじめから頭の中で考えついていたら、私はまぎれもなく演劇史はじまって以来の天才だっただろう。これはまったく早稲田小劇場という特異な集団の、現場での協働作業=初日までの稽古の過程でできあがったものである。ということは、偶然性を最大限に活用した台本であるということだ。だから、現在の時点で100日近い稽古の紆余曲折を筆にすることなど、とてもできるものではない。セリフを削ったり足したり、いろいろな音楽を間断なく流してみたり、配役を入れ替えたり、障子の吊り方を毎日工夫してみたりしたが、なぜこうなったのか、今になってみれば想いかえすことすら困難である。『湯島の境内』の場面なども、初めは早瀬も登場してその通り稽古していた。それが、いつ、何がきっかけで白石の一人舞台になったのか、と問われたら、世阿弥にならって“してみて良きについたのだ”と答えるのが、いちばん正しいことに思える。それが現場というものの唯一の原則だし、まったくそのように稽古していったからである。そして、初日の幕があいたら、ひとつの構成台本ができあがっていたというわけだ。戯曲があって舞台をつくるのではなく、舞台をつくることが戯曲をつくることである。この方法はあいかわらず早稲田小劇場の舞台のつくり方で、いまでは演劇に興味のある人たちにそれほど知られていないわけではないが、当時こういうことをする劇団はどこにもなかったのである。かつて折口信夫は六世尾上菊五郎を“からだの戯曲を舞台に書いていった”と評したが、もし敢えてこの『劇的なるものをめぐって』の台本をいちばんよく書いた人間をあげるとすれば、ほかならぬ白石加代子、彼女の身体であったということになるだろう。
 今回ここに収録された『劇的なるものをめぐってⅡ』は全十場からなり、引用文献ならびに構成は次のようである。
 第一場 ベケット作『ゴドーを待ちながら』
 第二場 鶴屋南北作『桜姫東文章』<岩淵庵室の場>
 第三場 ベケット作『ゴドーを待ちながら』
 第四場 鶴屋南北作『隅田川花御所染』<妙亀庵の場>
 第五場 泉鏡花作『湯島の境内』
 第六場 泉鏡花作『化銀杏』
 第七場 都はるみの歌『さらばでござんす』
 第八場 鶴屋南北作『隅田川花御所染』<妙亀庵の場>
 第九場 岡潔作『日本人のこころ』
 第十場 鶴屋南北作『阿国御前化粧鏡』<元興寺の場>と森進一の歌『女のためいき』
 これでわかるように、ここに集められている言語的素材は歌舞伎、新派、小説、流行歌、エッセイと、そのジャンルは多岐にわたっており、年代的にも江戸時代から昭和の現在にまでわたっている。なんらかの共通項でくくるとしたら、いずれにしろ日本語である、あるいは早稲田小劇場という集団によって、偶然舞台化される契機をもった言語群とでもいう以外にないものである。そしてこれらの言語的素材は、それぞれが一幅の絵として視覚化され自己完結してしまうのではなく、反発したり響きあったりして、全体のテーマ―潜在性としてある日本人の情動的心性をあばくように構成されている。
 むろん、これらの言語作品の全文がつかわれているわけではなく、その一部分がつかわれているにすぎない。ただ、つかわれたセリフに関してはほとんど改変されていないが、俳優のことばを発する状況が、原作が要求する舞台上の状況とは異なった形で設定されているということである。

――1977年『劇的なるものをめぐって 鈴木忠志とその世界』(工作舎)より

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