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鈴木忠志見たり・聴いたり

2月7日 顔が見たい

 ギリシャ悲劇を起源とする西洋戯曲は、殺人などの犯罪を扱うことによって、集団形成のルールの在り方を問うことを基本としている。日本で言えば、谷崎潤一郎や三島由紀夫はその系譜に近い。要するに、会話劇ではなく、対話劇である。犯罪者とされる人間や、社会的な事件の見方を討論=闘論するところに、劇というものの本質を見ている。いま稽古している谷崎の『お國と五平』は、殺人や不倫の理由を、世間の常識とはまったく異なった角度から議論している趣のものである。そして、人間という不可解な存在に対する理解を深めようとしている。
 富山県で2002年、タクシー運転手、柳原さんが少女暴行の容疑で逮捕された。否定しているにもかかわらず自白を強要され、偽りの調書を作成され、裁判で真犯人とされた。3年の懲役刑を終えて出所したところで、真犯人が判明。無罪をあらためて宣告する再審が開かれ、検察側はあらためて裁判所に無罪を求刑したのである。そのとき柳原さんは、当時の取調官の証人尋問を要求したのだが拒否されている。 
 冤罪で17年も服役した足利事件の菅家さんの場合は、釈放後の裁判所に元検事が登場したが、その検事はどんな人だったかは、私が接した報道の限りでは皆目わからなかった。菅家さんの謝罪要求を拒否したということだけが報道された。これらの人たちの取り調べの状況をみると、取調官に犯罪に近い言動があることが分かる。密室での脅迫や暴行、文書の偽造に近いことが行われている。なぜ検察や警察あるいは裁判所は、組織だけが前面に出てきて、当の関係者を登場させようとしないのか。人間には誰にも間違いはあるし、状況次第では理解可能な判断の誤りや心情の偏りもあるだろう。そのことを個人として明らかにしたり、主張すべきこともあってしかるべきである。それこそが公正とか正義という観念を集団が共有することのできるプロセスである。またマスコミも、被疑者や容疑者の顔や言動ばかりを報道するのではなく、他人を罪人として疑ったり、糾弾したり、密室に拘束したりできる人も、どんな顔をしていて、その言動はどんなものかを、多くの人たちに知らせるべきである。他人の運命を左右できる人の顔が分からないことほど、集団にとって不公正な人間関係はない。
 最近のマスコミは、検察と小沢一郎の権力闘争とやらで騒がしい。私などは地検特捜部という組織と政党の幹事長ということではなく、人間対人間の闘いの場面もしっかりと公開、報道されるべきだと感じる。少なくとも組織のリーダーや責任者は組織を背負っていても、個人として顔を見せ、全身の言葉でその見解を語るべきである。その点からすれば、記者会見に報道のカメラの同席を許さなかった今回の検察の態度は、組織を盾にした相も変わらぬ官僚的人間の狡猾さの印象を免れない。
 元特捜部長とか元検事とかが、テレビ画面で闘いの本質やその推移を解説や推測してくれるのも勉強にはなるが、私はまず、顔のある当事者双方の姿を現在形で目の当たりにし、その言葉に耳を傾けてみたい。顔と現在形の言葉に生で接触できるということは、コンピューター社会で劣化しつつある、人間への理解力や判断力を、維持発達させることのできる唯一の社会的手段だと思うからである。演劇という文化制度も、そのことのために2千数百年にわたって、人類に必要とされてきたのである。