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鈴木忠志見たり・聴いたり

2月15日 言葉

 教えることは演出するよりずっと骨が折れる。誤解を恐れずに簡単に言ってしまえば、演出は珍しい空間の創出である。その行為は空間の制約を前提にして、そこに立ち会い見る人を想定して立ち上がっていく。観客に珍しい体験をしてもらうのが、いちばん肝心なことであるが、教えることは俳優を志している人間の、潜在的な魅力を引き出すことである。それを個性と言ってもいいが、それを発見するために一人一人の人間に則して関わっていくのは、特殊な集中力というより精神体力といったものを要求され、疲れるのである。だから教えることからは久しく遠ざかっていた。
 私の考えだした俳優訓練を一カ月もやれば、身体の動きは安定し、素早くなり、声も大きく出るようになるが、これは演劇というものが、なぜ自分にとって必要なのかを自覚するための入り口のようなもので、大事な目的はその先にある。
 今春ひさしぶりに中国で教えることになり、どんな体験をするのか楽しみにしているのだが、すこし不安もある。言葉の問題である。これまでに中国語に接する機会が少なかったからである。
 昨年、ヨーロッパ演劇界を主導してきた旧知の評論家のひとりから手紙をもらった。ナポリ演劇祭と共同して俳優のための学校を今年の夏に創設する、生徒はEU加盟のフランス、イタリア、ベルギー、ポルトガルの公立の演劇学校を卒業する20人の優秀な生徒である、ついては教えに来いと言うのである。こちらの方はスケジュールの都合で、いずれということにしてもらったが、興味深い疑問が残った。この学校はどこの国の言葉を共通言語として授業をするのか、これは知りたい。というより現場を見てみたい。
 演劇の言葉は書き言葉だけではない。書かれた言葉を前提とするとしても、その言葉を身体を使って魅力的に音声化するものである。それは視覚よりも、聴覚と触覚の活性化に関わって成り立ってくる。いわば、見えない身体感覚と関係して、その独自の意味を現出してくる種類のものである。この見えない身体感覚の在り方を、個人個人に則して見抜いていくのが骨が折れるのである。言葉の表面上の意味だけを理解しさえすればいいわけではない。音声化された言葉は、民族の歴史や個人の身体感覚の特殊性という制約から自由であることができにくいから、聴くことによってその特殊性に対処していくのが難しいのである。教えるより観客でいるほうがずっと面白いにきまっている。ナポリの学校はいろいろな国の人たちで構成されるという。民族や国家の境界を乗り越えた学校、これは理想だが、演劇の世界でそう簡単に成り立っていくものだろうか。
 日中韓の演劇人の間でも、共同で演劇学校を作れたらという希望がある。私はかつて、中国と韓国の演劇人と語らって、BeSeTo演劇祭を創設した。まだ三カ国の政治指導者が一堂に会したことがなかった16年前である。そしてこの演劇祭はいまだに続いている。しかしこれは、それぞれの国の作品を持ちよる演劇祭で、共同で人材の養成をするようなものではない。日本の民主党政権はEUにならったのか、東アジア共同体の創設などとも言っている。政治や経済の領域では基軸となるルールの設定はしやすいかもしれない。しかし文化、殊に演劇となるとそれぞれの国の言葉をどう扱うのか、ましてや将来を見すえた教育の場面では、EUに比べてこの問題は、はるかに重く立ちはだかるという気がする。