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鈴木忠志見たり・聴いたり

2月21日 無責任

 最近の新聞報道、特に政治事件のそれには、関係者の話によると、という書き出しで始まる記事を見かける。私などは、関係者とは誰なのか、それがはっきりしないと、そこに書かれている事柄を信じる気がしないし、伝聞を軸に新聞記者が主観的な思い込みで書いたとおぼしきものや、自ら真相究明の努力をしていないのではないかと感じざるをえないものは、書かれている事実すら疑わしく思うことがある。今流行の説明責任とやらは、報道にも求められるものではないのか。というのも、かつて私は、いいかげんな新聞報道のために、金銭的な損害を被っただけではなく、社会的にも被害をこうむった経験があるからである。
 15年ほど前に、日中韓の演劇人による共同事業、第二回BeSeTo演劇祭が開催され、私の劇団SCOTの作品を上演したことがある。劇団単独の公演活動ではないので、戯曲作品、演出、舞台装置のデザインは、劇団員以外のすぐれた芸術家に依頼した。その時に、日本で活動する韓国の美術家が、舞台装置のデザインが自分の作品の盗作ではないかと言ってきた。私たちはその美術家の作品を知らないので、どう対応すべきか思案している矢先に、この美術家に同調した日本の評論家と大学教師が、私と演出家と装置家を著作権侵害で裁判所に提訴し、さらに大々的に記者会見をしたのである。こともあろうに、この記者会見、彼らの一方的な主張を軸にした記事が、朝日、読売、産経、東京、統一日報の各紙に掲載されたのである。特に朝日新聞は韓国人が当事者であったせいか、社会面に写真入りで大きく扱っていた。私たち三人も即座に、著作権侵害の事実の不存在と名誉毀損で逆提訴したが、私は朝日新聞の当時の演劇担当記者、扇田昭彦、今村修の二人に劇団の事務局長を介して、二つの疑義を呈した。
 一つは、新聞記者は裁判になるような事柄の場合では、事実かどうかを自らも調べ、真相究明の努力をすることが職業倫理なのではないのか、それをしないで、片方の主張を前提に報道してよいのかということ。もう一つは、演劇の場合、一人の芸術家の作品や言動が違法性をもったとして、それは当該個人の責任ではなく、共同の責任だとするのはどのような根拠によるのか。例えば東宝株式会社でも新国立劇場でもよい、劇作家の作品に盗作部分が発見されたとして、それは演出家や社長や理事長の責任にもなると考えているのか、といったことである。
 二人の記者の答えはほとんど同じだった。まず第一の疑義には、新聞は行われた事実や言動を報道するので、内容の真偽にはかかわらないというのである。記者会見が行われた以上、その事実を報道するのが新聞の使命だというのだ。第二の疑義については、演劇は集団によって創造される総合芸術で、作品制作にかかわっている指導的な人物たちには意識的な共同性が成立していたはずだからだというのだ。職業上の特殊性を盾にした詭弁だが、要は証拠に当たらないで記事にした責任逃れである。そのことを今ここでは反論しない。裁判の結末を記しておく。
 一審の地方裁判所は、韓国の美術家と二人の日本人は事実の確認をせず、一方的に記者発表を行い名誉を毀損した、よって我々三人に50万円の賠償額を支払えという判決を下した。これを不服とした三人は東京高等裁判所に控訴したのだが、判決は彼らにとってより厳しいものになった。賠償額はそれぞれ50万円から140万円になり、さらに記者会見の報道記事が掲載された5紙に、謝罪広告を掲載することを命じられたのである。
 ここで、彼らの負担せざるをえない金額は、短期間に一千万円をはるかに越えるものになったのである。当方の弁護士から聞いたところでは、韓国の美術家は離日して音信不通、必要な金銭は日本人二人が負担せざるをえなくなったらしい。評論家は預貯金や本などの印税を裁判所に差し押さえられ、大学教師は裁判所からの通達で、大学が払うべき月々の給料から長期にわたって多額の金額を差し引かれ、大学が直接裁判所に支払っていたと聞く。その厳しさは、私の方が驚くほど徹底したものであった。
 裁判開始から結審まで7年もかかっている。その間に私の方も、裁判のための準備費用や弁護料、勝訴に伴う成功報酬など、それなりの出費があったばかりではなく、著作権侵害をするような劇団の公演は遠慮したいというような、公共ホールの対応もあったのである。裁判で争った当事者双方は物心両面で疲労し、真偽を見定める努力もせずスキャンダラスに表面的な記事を書き、その争いに油を注いだ報道各紙は、臆面もなく謝罪広告の掲載費用で多額の収入を得ている。そして担当の記者は、我々に迷惑をかけたと個人として謝罪するわけでもない。むしろ、その社会的な影響力に酔っているのではないかと思えるふしもあったぐらいである。私は謝罪広告は新聞社も出すべきものだと思っていたから、これはマンガ的な光景であった。
 政治家や検察官と同じように、その職業を通じて他人の人生に少しでも影響を与えることのできる人達の、職業倫理の欠如ほど社会を害するものはない。