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鈴木忠志見たり・聴いたり

4月1日 大袈裟

 SCOTウインター・シーズンの公演が無事に終わってホッとしている。両日とも雪が散らついて心配だったが、大勢の人々が見に来てくれてありがたかった。世界は日本だけではない、日本は東京だけではない、この利賀村で世界を生きる、などと大きな口をたたいた手前、見てくれる人の多少にかかわらず、何がなんでもやらねばならぬイキがった心境にいるのだが、観客あっての啖呵だとあらためて感じる。
 今年は私の演出作品だけではなく、昔も現在も私の舞台に出演してもらっている音楽家、高田みどり、漆原朝子の二人に演奏会を企画してもらった。二人は打楽器とヴァイオリンの奏者だが、打楽器とヴァイオリンだけの演奏曲など聴いたことがないので、好奇心もあって頼んだのである。さすがに知的で意欲的な人たちで、少し苦労をされたようだが、いろいろな工夫をこらして楽しませてくれた。
 新利賀山房の舞台と客席は近い。演奏するときの呼吸や身体の動きの細部までもが音と一緒になって伝わってくる。音は身体であるという生演奏の醍醐味、楽器から音が出るのではなく、身体から出た音がこちらの身体に触れてくる。巧まれた音が橋がかりになり、他者との共存を確認できる空間が出現する、これはすぐれた音楽演奏の不思議な力である。
 演劇の空間は言葉の共有によってその多くは成立する。言葉によって、人間は集団の内に共存するものであり、そこにルールが存在せざるをえないことが確認される。人間は一人だけの存在ではない、この事実を無視すると、人間は狂人か犯罪者として隔離される、演劇はこの事例を言葉によって示し続けてきた。しかし最近の日本では、言葉は集団の持続を確信させるための励ましになるのではなく、むしろその崩壊を予感させるように存在していると感じさせられることが多い。
 日本の国土のバランスはあらゆる面で崩れている。その認識からか、最近の政治の世界では地域という言葉がしきりと飛び交っている。たとえば、内閣総理大臣を議長として閣僚や有識者を構成員とした地域主権戦略会議が組織されたり、現行の過疎法を改正した、過疎地域自立促進特別措置法などというものが成立したりしている。地域主権とか自立促進とか名前だけは仰々しく格好はよいが、かえってその中身を疑いたくなる言葉の見栄、つまりは下手な役者の誇張演技のような印象もする。これらの言葉が、実際に現場を生きている人たちの身体に接触できるものになるとはとても思えない。
 SCOTの拠点がある利賀村は、過疎市町村に該当する南砺市にある。平成の大合併で南砺市になったが、この利賀地域の人口減はくい止められていない。のみならず、利賀村は65歳以上の住民が50%を越す限界集落で、存続の危ぶまれる地域でもある。
 日本の過疎市町村は、人口では日本の全人口の10%にも満たないが、面積的には国土の50%強を占めると言われる。私はこの広い地域の将来が日本の命運をも決すると考えているが、今度の過疎新法では、対象事業範囲を文化的なソフト面にまで広げたり、事業費の70%を交付税措置するような目配りがされている。しかし財政支援だけで、これらの地域が自立し活性化しないのは、現にそこに生きている人たちが口には出さないまでもよく知っているはずである。
 大袈裟な言葉と中央政府の財源のバラマキは、現在の日本の政治風土では、相も変わらぬ目先の実利に汲々とする人心を煽るだけのことではないのか。50年先、100年先を見据えた生き方の価値観、その生き方を支える精神的な目標、それらを新たに生みだすための政策と一体となった予算の裏付けこそが必要である。それでなければ、日本人の心と国土の荒廃には歯止めはかからない。