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鈴木忠志見たり・聴いたり

4月15日 予感

 久しぶりに上海に行った。万国博覧会の開催直前ということもあってか、活気に満ち溢れている。高層ビル群がライトアップされ、中空に林立していて異様な迫力である。その殆どは立方体と三角形のデザインだから、ニューヨークや東京をはるかに凌いで、未来の都市空間のただ中にいるような印象を与える。アメリカや日本がGDPを2倍にするのには、40年前後を必要とした時期がある。それを中国は一人当たりのGDPを1978年からの9年間で倍増し、さらに96年までに再び倍にした威力であろうか。
 上海での演技指導の最終日、私への慰労の心遣いか、国立上海戯劇学院の教授が蘇州を案内してくれた。こちらは近代化された観光地になりつつあるとはいえ、水の都としての昔日の面影を、まだ随所に残していると思え、ホッとするところがある。昭和15年<1940年>にヒットした西條八十作詞の「蘇州夜曲」を思い出す。「君がみ胸に、抱かれて聞くは、夢の船歌、恋の唄、水の蘇州の、花散る春を、惜しむか、柳がすすり泣く」である。
 私にはここまでの妄想をかき立てられる情趣はなかったが、運河沿いに立ち並んでいる民家の白壁、川面に映る枝垂れ柳、石で作られた太鼓橋、これらの取り合わせが、昔の日本人にエキゾチックな官能性を想わせたとしても不思議はないと納得はした。私もいまだ、川で髪や衣服を洗っている若い女性の姿を目にして驚いた。中国はまだ多様である。
 谷崎潤一郎も大正7年<1918年>に蘇州に遊び書いている。
「蘇州の市街には運河が縦横に貫通して橋の数が非常に多い。それらの橋は殆ど悉く石を以て造られ、横から見ると美しいアーチの形を成して町の家並みよりも高々と虹のやうに水の上に懸って居る。全く東洋のヴェニスであると私は思った。」
 北京や上海を訪れて見れば、中国はもはやまぎれもなく経済大国である。かつては、アジアは一つだとか、大東亜共栄圏だとかいうスローガンのもとに、日本からの帝国主義的な侵略を受けた国が、いまやグローバル経済の高波に乗り、見事な国家的な成長をしている。今年1月から3月のGDP、いわゆる国内総生産は、昨年の同期比11.9%の伸び率だそうである。見方によれば感動ものである。むろんこの驚異的な経済発展と世界的な影響力の裏には、非人道的な社会構造が在るとはよく言われることだが、それにしてもこれから、この国は何を言いだし、どう行動するのか興味は尽きない。かつての日本のように、欧米のアジア植民地化に抗すると称してアジア主義などというものを唱え、実際はアジア諸国を侵略していったような轍を踏んでは欲しくないものである。
 いずれにしろ、中国国家の在り方は、劣化しつつある日本の行く末を確実に左右するだろうと感じる。