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鈴木忠志見たり・聴いたり

5月16日 偶然性

 日本平の中腹にある静岡県の舞台芸術公園には二つの劇場がある。楕円堂という楕円形の劇場と、この山の名称を冠した野外劇場の有度である。二つともに世界に誇れる劇場だと思う。私が財団法人静岡県舞台芸術センターの芸術総監督に就任し、実際の活動を始めるときに竣工したもので、両方とも友人の磯崎新設計である。現在、楕円堂では私の演出した作品「エレクトラ」が上演されている。この楕円堂はイタリアのヴィチェンツァにあるテアトロ・オリンピコを参考にした。
 テアトロ・オリンピコは1585年に開場した円形の美しい劇場で、ヨーロッパ最初の室内劇場である。ロビーの壁面にはローマ法王に謁見した後、この劇場のオープニングに参列した天正遣欧少年使節の伊東マンショらの絵が描かれてある。この劇場では二度の公演をしている。「エレクトラ」もその一つであるが、世界を旅してもっとも苦労をした劇場である。
 劇場の舞台には舞台奥に向かって五本の通路があり、三本の通路の両脇には家並みを思わせる常設の装置が建てられている。要するに本舞台はギリシャやローマ時代の広場であり、本舞台から奥へ向かう通路は、広場に人々を導く街路ということになっている。そしてその街路は奥に向かって坂になっている。私はテアトロ・オリンピコが、五本の通路と遠近法による家並みの舞台背景がある劇場だと知ってはいたが、通路が急傾斜の坂道になっていることを実際に行ってみるまでは失念していた。
 「エレクトラ」の登場人物のほとんどすべては、車椅子にのって激しく動き回る。この急傾斜の坂では奥から一度登場すると、もう元に戻ることができない。俳優の動きは変更につぐ変更で、やっとのことで初日の幕があくというあり様だったが、演出というものは可変的な空間にどう対応するかの能力のことだと、あらためて迫られている楽しさもあった。楕円堂にも五本の登場口があるが、むろんこの通路は水平にしてある。
 有度山に野外劇場を造るときには面白い経験をした。われわれ日本人の劇場環境のイメージが、いかに画一的で貧しいかをあらためて思いしらされたのである。静岡県の関係者をまじえて、どのような劇場にすべきかを議論したことがある。その時に県の担当者の一人がこういう発言をした。10年以上も前の話であることは断っておく。県会議員の先生から、野外劇場を有度山に造るそうだが、雨が降ったらどうするのだ、それにあそこは虫も多い、県民に虫に食われ、濡れながら演劇を楽しめと言うのか、病気になったときの責任は誰がとるのか、と質問をされたが、これにどう答えるかと言うのである。この計画に反対する議員だったら、それぐらいのことは言うだろうとは想定していたから、私はしばらく黙っていた。そうしたらもう一人の担当者が、雨が降り出したら客席に屋根がかかるような可動式の設計にしたらどうだろうと言う。出席している人の中から、その場合には可動式屋根の収納場所や柱が必要だから予算の配分を見直そう、と具体的なことまで言いだす人も出てきた。
 仕方がない、こういう場合は少し話を刺激的にする以外にはないと思い、私は言った。虫に刺され、雨に濡れることがあるから野外劇場なんです。そこで担当者の質問。では雨が降っても演劇は中止しないんですね。答え、もちろん、そのまま続行です。再び質問、薪能などはどうします。高価な衣装ですし、楽器の音も違ってしまう。答え、高価なものが一瞬にしてダメになる、それを目のあたりにできる、それが野外劇場で観劇する最高の贅沢。そんな貴重な経験は一生のうちでも滅多にありません。皆は黙ってしまう。こんなことをダイレクトに県会議員に言ったら一騒動だろうから、行政官も大変である.日本人には本当の野外劇場の経験がないからこんな話になるのである。
 私が言おうとしたことは単純なことで、野外劇場というのは、自然を感じるためのものだという前提を崩すな、ということである。この場合の自然とは偶然性ということである。雨も降るし風も吹く、何がおこるか分からないから野外なのである。議員も担当者も偶然性というものを排除し、すべてをコントロールしたいために創られた空間、室内劇場を前提に話をしている。私の理屈から言えば、それなら野外劇場の建設は意味がないから中止である。自然との共生などとは口にするな、である。
 日本の俳優やダンサーもこの前提を理解していない人たちが多い。雨が降って舞台が濡れたりすると、稽古してきたように動けないから中止したいと言ったりする。滑らない床でできあがった身体の動きを、滑る床になったらどのように対応させたらよいか、滅多に経験できないことを工夫するのも面白いはずなのである。上手にやってくれれば、観客はそれをむしろ楽しむことができる。それこそ一期一会である。可変的な状況に対応して生きる楽しさ、それを目のあたりにする楽しさ、どんな偶然とも共棲できる身体を見せたい、見たいというのが舞台芸術にかかわる創造的な専門家の欲望ではないのか。
 小沢一郎民主党幹事長ですら、ヴィスコンティ監督の映画の一文句を引用して言ったのである。変わらないためには、変わらなければならない。