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鈴木忠志見たり・聴いたり

6月7日 BeSeTo

 第17回BeSeTo演劇祭が新国立劇場の中劇場をメイン会場にして、6月の下旬から全国各地で幕を開ける。私の演出作品「シラノ・ド・ベルジュラック」も演目の一つとして上演される。BeSeToとは、Beijing、Seoul、Tokyoの頭文字をとったもので、演劇祭の主催団体は日本、中国、韓国それぞれの国の実行委員会、現在の日本の委員会代表は劇作家平田オリザである。創設は1994年、第一回の演劇祭は韓国のSeoulで行なわれた。創設時の代表委員は、韓国が韓国国際演劇協会会長の金義卿、中国が北京の国立中央戯劇学院院長の徐暁鐘、日本は私であった。
 <二つの強国に挟まれた韓国人たちは数え切れないほど、中国を恨み、日本を仇敵と見なしてきた。いつの日まで三国民はお互いを非難し、憎まなければならないのか? そうだ、サルプリ(お祓いの意味を込めた韓国の踊り)をしてでも、長い間蓄積された怨念を払い流してみよう‥‥多分、これがBeSeTo演劇祭の秘められた悲願かも知れない。>
 これは1995年に東京で開催された第二回BeSeTo演劇祭に、韓国代表委員の金義卿が寄稿した挨拶文の一節である。この演劇祭はまさしく金さんの情熱なくして実現しなかったものだが、この演劇祭を提唱した当時の気持ちがよく表わされていると思う。17年も前のことである。日中韓の政治指導者が世界的な視野をもって、三国の関係の在り方について建設的な話し合いをすることなど想像もできなかった頃で、当時の私もまた、ヨーロッパの演劇祭に参加したり、アメリカの大学で教えることに忙しく、アジアの演劇人との共同事業など考えてみることもなかった。しかし既にこの時、金さんは演劇のためではなく、国家や民族の共存の在り方のために、アジア三ヶ国の関係の未来を文化活動の視点から構築しようと行動していた。
 今回、BeSeTo演劇祭の過去を調べているうちに見つけた金さんの文章、ここで私は、忘れかけていた演劇祭実現までの経緯に改めて出会い感動した。私の関係するところだけを原文のままに引用する。
 <1993年6月に私は鈴木忠志氏の「演劇とは何か」の韓国語版を出版するに至り、その上、氏は私を利賀フェスティバルに招いてくれた。ここで、私は3ヵ国による演劇祭を提案し、鈴木氏の絶対的な賛成を得る事ができた。この年の4月、私は様々な目的の下、北京を訪れた。今は故人となられた柳以真・中国戯劇家協会書記と意気投合し<中略>3ヵ国の演劇祭の開催に対する惜しみない協力を約束された。だが、柳先生は94年3月、他界された。そして、4月に再び北京を訪れた私は、中央戯劇学院院長である徐暁鐘氏を説得することに成功し、5月には東京にて鈴木氏と再び席を共にすることができた。その結果として、私達は1994年7月1日にソウルに於いて「BeSeTo演劇祭」の開催を共同の声明として発表するに至った。>
 これを読むと国際的な共同事業が成立し発展するためには、たった一人でもよい、最初に事業を発案する人の理想と行動力が重要だということがよく分かる。この一文はこういう言葉で締めくくられている。
 <戦争に対する謝罪を絶えず要求する韓国人に、何故韓国人は間断なく日本人の謝罪を要求するのかと腹を立てた日本のある知識人を私は記憶する。この様な隣人に止まってはならないというのが私達の望みである。3ヵ国の演劇人たちがいちはやく「理解と譲歩の道」を開く事が出来ればノーベル平和賞は演劇人たちのものになるであろう。>