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鈴木忠志見たり・聴いたり

7月22日 場を楽しむ

 「シラノ・ド・ベルジュラック」の新国立劇場での公演を終えて利賀村に帰ってテレビを見ると、広島は豪雨で土石流が発生し、多くの民家が押し潰されたり流されたりしている。利賀村でも集中豪雨で山が崩れ、村民が生き埋めになったことがある。今回の豪雨では人家に被害はなかったようだが、翌日に野外劇場まで行ってみると、道は表面が筋状に削り取られているし、劇場の階段には大量の土砂が流れ込んでいる。短期集中型の相当な雨量があったことが分かる。電動の車椅子で走行してみると、深く削り取られている所が随所にありハンドルをとられる。夜などは危険なので、さっそく劇団員と油圧式のショベルカーで道路整備をした。
 しかし日中は暑い。夜テレビを見ると群馬県は38度もあったとか。鉄道の線路が暑さで狂いを生じ、水をかけて冷やしている光景が放映されている。それもバケツやヤカンで水をかけているようなのである。線路もその程度の金属であったか、これは発見であった。人工衛星が大気圏外まで飛んで還る時代にである。失礼ながら楽しく笑ってしまったが、我が身も同じような環境に居ると、親しみを感じたのかもしれない。
 演劇作品も空間が変わるたびに狂いを生ずる。その狂いの原因は身体と空間の関係からくる。空間が違えば、俳優の演技、装置や衣裳は同じにしても、見る人の印象は全く違ってしまう。何がそうさせるのか、それは俳優の演技や装置などが空間にマッチしないこともあるが、経験の豊富な人ならばそれを調整するのはそれほど難しいことではない。解決しなければならない難しい狂いは観客の身体の状態、外界を感受する観客の身体のそれが違ってしまっていることにある。
 例えば、室内劇場と野外劇場とを比べてみれば分かる。そこに存在する人の身体の状態は異なっている。演出家が同じような作品の印象を観客に与えようと同じことをしても、空間が違えば観客の方はそれを全く違ったものとして受け取ったりする。特に我々が対象としているような演劇好きの観客の多くは、戯曲の内容や俳優の表情や動きなどだけに反応し、演劇を楽しんでいるわけではない。違う言葉で言えば観客が楽しむのは「場」そのものなのである。
 今そこに居るその「場」の楽しみ、それがどんな空間であろうと、観客はその場その場に居ることの満足を見いだし、生きたいと望んでいる。その観客の欲求のためにどんな工夫が凝らされるのか、演劇創造の本質はそこにある。観客が自分自身を新鮮に感じる空間、世阿弥的に言えば、花のある珍しい「場」の創出が演劇の存在理由である。表現する側の満足のために空間があるわけではない。だからこそ多様な空間が出現しそれに対応せざるをえなくなった現代演劇では、演出という役割とそれを担当する人の能力が重要になったのである。自分たちの表現の目的を有効に作用させる身体と空間の関係への判断力、これがまず演出家に要求される能力である。そのために、線路に水をかけるような長時間の生身のエネルギーを使う稽古が必要なのである。
 今夏のSCOTサマー・シーズンの「シラノ・ド・ベルジュラック」は野外劇場の上演、花火を派手に使うことにした。新国立劇場とはどのように違った「場」の楽しみを生み出すことができるか、自分にとっても乞う御期待である。