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鈴木忠志見たり・聴いたり

8月17日 仁義

 演歌歌手の北島三郎に「仁義」という歌がある。1969年から歌われている。天に一つの陽があるように、この世に道理がなくてはならぬ、どんな立派な素ぶりより人はこころだ、こころを捨ててどこへゆく。
 まったくごもっともと言うしかない。文部省検定の教科書の一文ならともかく、これが演歌だと言われるとビックリする。民主党や自民党、あるいはみんなの党のマニフェストの冒頭にでも書いておいてもらいたいような歌詞である。守る事のできない約束を羅列してもよいが、一応これぐらいの気持ち、守りたい願望ぐらいはあると言って欲しいようなアリガタイ言葉なのである。
 世間をあまねく照らし出し、すべての人が従うべき一つの正しい道、人のもつべき一つの正しい心があるというのである。こんな珍しい流行歌がつい最近まで日本にあったのである。仁義とは人間が守るべき道徳だと辞書には書かれている。ここには最近の日本人の生き方とは正反対のことが言われているのではないか。日本には八百万の神がいて、小泉純一郎が首相在職当時に言ったように、人生いろいろ心もいろいろで、少しぐらい約束は守らなくてもよく、その場その場で正当化される理屈に合わせて生きるのが日本の政治と、それに基づいた日本人の態度になっているのは、今や世界の人々も困った顔をしながら認めていることである。
 いったい、こんな歌はいつどこで、どんな人に歌われたのか、その現場は、バブル経済を経過した今や想像もできない。しかも北島三郎はこれを実に堂々と気持ち良さそうに歌っている。これが、日本の大衆の本当の願いと行動だったら、日本の政治家にとってこんな恐ろしいことはなかったはずなのである。もしこの心情や信条が行動に移されていたら、政教一致の復活や革命の出現を許していたかもしれないのである。その心情や信条は歌になって大衆に歌われざるをえなかった。しかも、ヤクザの源流ともいうべき任侠道を讃えるものとしてである。この演歌の出現は、日本人の実行的な精神的価値観の一つが、確実に滅んだことを示していたのだといえるかもしれない。日本の政治家や教育者はこのことをまず心しておくべきだと信ずる。
 義理で始まり仁義で終わる、いっぽん道だよ、おいらの旅は、どうせ短いいのちなら、パッと燃やして世間の隅を照らしたい。これは二番の歌詞である。義理とは対人関係や社会関係の中で守るべき道理として意識されたものだと、やはり辞書には書いてある。これを世間の法を逸脱してまで筋を通そうとするヤクザや任侠の徒のための歌とするのではなく、政治家自らの歌として、国会の開会式にでも全員起立して合唱してくれていたら、国民はどんなに朗らかになったかはかりしれない。むろんマスコミやしたり顔の国民の中にはあざ笑ったり、その馬鹿馬鹿しさを非難する人も多いだろうが、これぐらいトンデル政治の光景が出現したほうが、日本人はむしろ救われたような気がする。大笑いしながら、その気持ち、その心意気でいいと思う人のほうが、開き直った健全な心を持っているのではあるまいか。少なくともそこには、滅んだものが目の当たりに見え、現在の閉塞的な状況に対する絶望の片鱗が窺えるからである。これから、いよいよ世界的な大不況の到来が予測されている。政治家には少なくとも、この気持ちは忘れては欲しくないものである。
 初めて、戦前の大衆劇作家長谷川伸の戯曲を素材にして舞台を創っていたら、こんなことを考えさせられた。われながら意表を突かれて驚きである。