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鈴木忠志見たり・聴いたり

10月4日 麻痺

 韓国の首都ソウルで開催された第五回シアター・オリンピックスは予想以上に盛り上がっていた。オープニング・セレモニーでは、実行委員長のソウル市長が小劇場の密集する大学路を特別区にすると宣言し、文化部長官が財政的な支援はするから質のいい作品を作れと檄を飛ばした。私もシアター・オリンピックスの国際委員の一人として、この催しの意義についてスピーチをした。
 私の作品「ディオニュソス」上演の劇場は、客席に補助椅子まで出すほどの超満員で、チケットが手に入らない人も大勢いたようである。オープニング公演である私とロバート・ウィルソンの舞台は、新旧二つの国立劇場で上演されたが、文化部長官の命令で今回から、国立劇場の公演は招待券を一切出さない方針になり、長官を始め関係者のすべてもチケットを購入した。招待券を発行しない、これは大変な英断である。しかも、文化部長官がそれを言い出すとはススンデイル。義理で招待状を出させられ、出席の返事がきたから、まあ支援してもらったこともあるからと、良い座席を用意しておくと、当日になって無断で欠席する。つい先頃、新国立劇場で行われたBeSeTo演劇祭のような国際的な催しでも、日本の国際交流基金の理事長や、文化庁の助成金の審査委員でそういう事をする人がいる。ナニガ国際交流だ、ナニガ文化だ、とその権威を笠に着て鈍くなった体質をあざ笑いたくなる。満員の客席に用意した座席が空席であること、それが主催者や出演者、一般観客へどれだけ失礼かという感覚が麻痺しているのである。
 感覚の麻痺ということで言えば、日本はすさまじい勢いでそれが進行している。大阪地検特捜部の犯罪事件など、まさに日本人の人間関係のモラルの麻痺以外のなにものでもない。私はかつてこのブログで、検察が密室で作成した偽りの供述調書は、犯罪行為だと書いたことがある。なぜ正義を盾に国民を騙すような詐欺行為を放置しておくのか、冤罪を犯した検察官は罷免されるか逮捕されるべきなのに、そんな裁判が行われたことなど聞いたこともない。マスコミの無定見と大衆迎合も怖いが、検察と癒着する日本の裁判所の無気力が、日本の社会にとってもっとも怖い感じが私はする。
 近ごろ、検察審査会というものが話題になっている。最初にこの名前を聞いたとき、私は検察が権力にまかせて人を逮捕し、無闇と長期間拘留し、供述だけを頼りに起訴する行き過ぎを、市民感覚でチェックする審査会だと思っていた。実際はその反対で、検察が起訴しなかった事案を、起訴することを可能にする会なのだと聞いて驚いた。もしそうなら、この会の人事構成、任命手続きの不透明さは何に由来するのか。裁判員制度の場合とまったく違っている。これも行政機関がよく設置する隠れ蓑、世間の風当たりを和らげながら行動する、秘密の別動隊だと思われても仕方がない。
 法治国家というものへの社会感覚の麻痺、他の国を法治国家ではないなどと非難する前に、正すべき日本の屋台骨があることを、今度の事件は示している。尖閣諸島問題でも思うが、日本人が激しい議論と怒りをもって行動することへの重要性を、忌避しつづけすぎてきたツケが今、見事に顕在化している。