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鈴木忠志見たり・聴いたり

10月17日 伝統論議

 日本の身体芸術の伝統は滅びました。野村万作と花柳寿輔の二人を前にして、こんなことを公言するのはすこし気がひけたが仕方がない。二人は私より一回り近く年上、日本伝統芸能界の長老である。特別に伝統芸能への批判や悪意があるからではない。心情的にはむしろその逆である。ただこの視点から、日本の身体芸術の伝統を把握して論ずるのが、現在では説得力があると思ったのである。観客の大半は学生、能・狂言や日本舞踊、あるいは歌舞伎や義太夫などに、それほど親しんではいないだろうし、ましてや日本家屋に住んでいる人は、殆どいないと思ってのことである。この発言をしたのは、早稲田大学文学学術院創設120周年の記念行事として「演劇・舞踊における伝統と現代」というシンポジウムが大隈講堂で開かれた席である。
 身体芸術の伝統が滅んだとするのは、とんでもないという声も当然あるだろう。伝統芸能は興行としてはそれなりに隆盛ではないかと。確かに能でも狂言でも歌舞伎でも、若いアイドル役者の活躍によって賑やかではある。しかしそれは外形だけのことで、わずかな当事者をのぞき、伝統が身をもって生きられている、あるいは自覚化されて表現されている現場を、見たことがないというのが私の見解なのである。それだけではなく、これからの日本人が、たとえ当事者であっても、日本の伝統と呼ぶべき身体感覚の表現を、身体を<見せ・見られる>という文化制度のうちで、観客に説得力をもって見せられるかは疑わしいと思う。1990年代の始め頃から、日本の身体芸術の伝統は変質し、昔のそれとは断絶しているからである。
 私が伝統は滅んだとする根拠は次のことに起因している。現代人の空間構成の考え方と人間関係を成立させるコミュニケーションの方法、この二つのことが今から20年ほど前から、それ以前のものとはまったく違ってしまったからである。
 一つは、現代日本人が、序列化する人間関係を成立させる空間構成を嫌ったし、そういう空間を捨てたことによる。空間に人間関係を構成する中心点、その位置を想定しなくなったのである。その逆の典型的な例は、床の間や神棚のある空間である。現代人はドイツの建築家ミース・ファン・デル・ローエの提唱したUniversal space、いわゆる均質空間、どの一点をとっても、それが他のどの点にも優劣がないように設計された空間を好み、大部分の時間をそこで過ごすことになった。ただ四角いだけのガラス張りのオフィスビルを想い浮かべればよい。そういうビルに行くと、そこを事務所にしている会社の社長などが、ウチノカイシャハ、ミンシュテキデネ、と自慢したものである。
 もう一つは、人間関係を成立させるコミュニケーション会話がコンピューターやケイタイのメールに依存することになったことによる。会話を成立させる基本言語が、視覚と人工的に加工された音声言語になった。触覚文化の凋落である。
 日本の伝統的な人間観察は触覚を前提にした言葉で表現されてきた。ことに舞台関係者は、息が合う、足が地についている、腹がすわっている、腰が割れているとかと身体感覚言語を多用してきた。身体感覚の言葉ほど個別で主観性に左右されるものはないのだが、これも身体の経験の共通性の上に成立することである。この身体感覚の共通言語の成立をメールは拒否している。メールで、私はあなたと肌が合う、などと書き送ったら今やセクハラの嫌がらせである。もうずいぶん前だが、山間部の小さな村を訪れたことがある。役場の垂れ幕に、触れ合いとおもてなしの里、と書いてあった。これこそ場所によっては、セックスによる接待の風俗営業法違反の行為として、警察の手入れがあってもおかしくはない。かつての栄光の日本語の命運も怪しいのである。
 日本社会は変わった。日本の伝統はむしろ自然と死なせ、新しい伝統の必要性でも議論するのか、いやいや、まだかすかに息をしている伝統を、蘇生させる処方を考えるべきだとするのか、いずれにしろ日本人に残されている時間は多くはない。