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鈴木忠志見たり・聴いたり

10月24日 可哀想

 一雨毎に寒さが押し寄せてくる。紅葉と落ち葉の始まり。我が家の周囲には樹齢を重ねた大木がいくつかある。地面を覆う一本の木の落ち葉の量にあらためて驚く。上を歩くと地面の硬さを遠ざけるクッションの柔らかさである。池を取り囲む岩も、木の下にあるものは褐色に変わっていく。
 食べ物を探しに里に下りてきた熊や猿の姿がテレビで頻繁に放映されている。この利賀村では季節を問わず、いろいろな動物に出会う。兎や狸、穴熊など珍しくはない。池にはイワナやニジマスを狙って、いろいろな動物が近寄ってくる。狐、貂<テン>、鳥では鷲や山翡翠<ヤマセミ>の姿なども見かける。白々と夜が明ける頃、トイレに起きたついでに障子を開けて外をそっと覗くと、池の中に鷺が身じろぎもせずに立ち、魚が近づいてくるのを待っている。その息を詰めた立ち姿が見事で、見とれてしまうこともある。
 今年は貂と白鼻芯<ハクビシン>を生け捕りにした。白鼻芯はジャコウネコ科の動物で、木登りが得意、字のとおり鼻の中央に白い線がある。数年前に三匹も我が家の屋根裏に棲み込み、ひどい目にあった。冬季は滅多に出入りしない部屋の天井のあちこちに、糞が山盛りになっている。二階の屋根の下にちょっとした隙間があって、そこから入り込んで一冬過ごしたらしい。二度と入らぬようにしたが、糞尿の匂いが強く残ったので、天井板をすべて取り替えたことがある。
 劇団員にとっては貂も白鼻芯も珍しいだろうと思い、稽古が終わるまで檻に入れたまま放置しておいたら、外に出ようと暴れまくり手足を血だらけにしている。白鼻芯は額の皮膚まで剥がれ、近づくと激しく唸る。必死の迫力と逃亡への執念を感じる。その姿を見て若い女優が、可哀想だと目を背けたり、身を小さくして見ていられないなどと騒ぐ。折角の機会だから、もう少し落ち着いて顔つきでも観察したらと言いたくなるほどであった。喰いちぎられたり、嘴で胴を突き刺され死んでいく魚も見ているのに、こちらの方は可哀想だとは騒がない。食卓でお目にかかっているからだろうか、魚も可哀想、もちろん牛や豚も人間に食べられて可哀想と、私が言うと笑っている。現代日本の若者の殆どは、生きた魚を捌くこともないだろうし、ましてや動物を殺す経験もしないだろう。だから、こういうときの反応が生理的に過剰で、ただウルサイことになると推測している。
 少しぐらい血だらけになったとはいえ、再び山に帰ることのできる貂や白鼻芯である。それが人間性の豊かさであるかのように騒がれるとウンザリする。稽古中に激しい動きをして、ちょっとでも血が出たり、身体の不自由が起きて演技に失敗すると大騒ぎするのに通じる。自分の神経の弱さや失敗の原因の方を直視しない。
 こういう現場に出会うと、ニンゲン、一度は若い時に、自分の手で動物を殺す経験をした方がよいのではないかと思ってしまう。世界中では毎日毎日、人間によって人間が大量に殺されたり、捕らえられているのである。こちらの方もやはり目を背け、カワイソウニ、と騒いだり笑うだけなのであろうか。