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鈴木忠志見たり・聴いたり

1月11日 虚構の身体

 私の立場からすると、マインドコントロールという言葉の多用には違和感があった。ボディーコントロールとでも言うべきものではないか。オウム真理教について磯崎新が触れたので私も発言をした。身体を制するもの心をも制する、オウムにはこの実践の一つの形があったと言いたかったのである。
 新年早々、大澤真幸の司会で磯崎新と三人で座談をした場でのことである。磯崎さんは盛んに現代人、特に若者の身体が模造品のようだと発言する。彼は虚構の身体という言葉も使用していた。この言葉は一部の舞台関係者が使う専門用語だが、舞台上に存在するための特殊な文法を会得している身体のことである。むろんこの文法は、長い訓練を経過して身につくもので、日常の身体を相対化する作業から生まれるものである。
 我々の身体はたえず外界からの刺激を受けて活性化する。刺激によって身体は特殊に自覚化され、身体意識が日常生活の惰性的反復から離脱し、新鮮な存在感を感じることができる。おそらく、現代人の身体が模造品になりつつあるとしたら、それは外界から身体にかかわってくる刺激が自発的なものではなく、受動的で画一的なものになったからであろう。
 例えば、スポーツ選手の身体の行動は、それがどんなに日常の動きに似通っていても、日常の身体意識、重心や呼吸への意識はまったく違っていて、日常の身体意識を否定し、むしろそれと対立するものである。彼らも走ったりするが、これは同じ走るという概念で語られたとしても、その内実はまったく日常のそれとは別物である。日常的な身体への特殊な刺激=訓練という反復を繰り返した後に、たえず身体を一回性として新鮮に生きさせるものである。その点では、優れた俳優の舞台上の演技や武道の真剣勝負の前提になる虚構の身体と同じである。
 現代人の身体は、今やコンピューターや携帯電話、あるいは3D映画やある種の薬物使用に見られるように、人工的な刺激によって日常からの離脱感を提供されている。その離脱感が麻薬のように作用し、それが失われたら禁断症状を示すぐらいにまでなっている身体もある。身体の虚構感覚が、人工的に開発された新しい身体刺激材によってたえず更新されていると言ってよい。しかしこれは、自らの生活世界から自発性として獲得された虚構性ではなく、科学技術を駆使する人達の欲求の結果に委ねられて発生した、他者に依存した身体のインスタント的虚構感覚である。
 オウム真理教の過激な集団的行動を後押ししたのも、身体の虚構感覚を現代科学を駆使して人工的に作り出すことに成功したことによる一面がある。マインドではなくボディー、たえず刺激を欲する身体というものへの邪悪な考察を、巧みに利用した宗教集団であったと思う。むろん宗教集団というものは、古今東西、ボディーコントロールが与える刺激と快感に、集団的結束の基礎を置いていたことには変わりはない。オウム事件の成り行きに触れると、現代人の誰でもがオウム信者になりうる潜在的な可能性を身体に所有していると感じるのである。
 現代社会の刺激と変化に満ちた生活に批評的にかかわりながら、人生の未来に魅力を感じさせる、堅固な身体の虚構性を集団的に手にすることは可能か、これが現代の演劇人に課せられた難問かもしれない。