BLOG

鈴木忠志見たり・聴いたり

1月28日 ササヤキ声

 台湾での新作ミュージカル「茶花女=椿姫」の舞台稽古が始まった。一昨年ヴェルディのオペラ「椿姫」の演出をしたが、今回はアレクサンドル・デュマ・フィスの原作戯曲を踏まえ、なぜ一人の青年が精神の異常をきたし、病院に入ることになったのかを、彼の回想と幻想を通して明らかにする流行歌劇である。
 台湾や日本で大衆に馴染まれ流行した歌、全部で14曲を使用している。その中には日本の植民地時代に上海で作曲されたものなども含まれている。また、日本や国民党統治時代の政治犯の収容所のあった緑島を思わせる歌を使用したり、日常では起こりえない中国語と台湾語を話す人物が同在する場面のある舞台にもした。たとえば、アルマンの父親は土着語に近いともいえる台湾語を話し、最初マルグリットは中国語=現在の台湾の公用語である北京語で応ずる。しかし、父親に懇願され、アルマンとの別れを決心してからは、マルグリットはアルマンの父親と同じ台湾語で会話をするというように。台湾の苦難の歴史の一断面に、少しでも接触できればという思いもあってのことである。
 舞台上に展開する表面上の物語りは単純である。愛し合う若い男女が、自分たちの置かれている社会的な立場や、所属している階級の特殊性を考えずに行動すると、精神状態に何が起こり、その男女の人生はどんな成り行きをたどるのか、むろん破局で終わる純愛物にお決まりのものである。
 世界の至る所にこの手の純愛物語りは存在するが、最も有名なものはシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」であろう。しかし、同じ若い男女の純愛がもたらす悲劇でも、この「椿姫」と「ロミオとジュリエット」とのそれには大きな違いがある。
 ロミオとジュリエットは、富と権力をもつ同じような家族が敵対しあう社会環境のなかで、それぞれの家族に属しながらも、自分たちの愛情関係を、周囲にどう納得させるかの物語りである。その愛情が純粋だと見なされた分だけ、そこには味方もいれば敵もいる。不運な結末とはいえ、観客・読者にとっては健康そのものの物語りであろう。
 椿姫の二人の主人公アルマンとマルグリット、彼らの周囲には誰も味方がいなかった。また彼らも自分たちの愛情関係の内実を、周囲に納得させる力と術をもたなかった。彼らの育ったそれぞれの世界はあまりにも違っており、彼らの関係を結婚という形で具体化するためには、自分たちの所属している社会や環境と戦い、それらの生活世界から離脱する必要があった。ロミオとジュリエットとの愛情関係と比べると、二人のそれは、ただ精神の純粋さを表現していると見なされるのではなく、所属する世界に批判的で、ルール違反の行為と見なされやすい性質があるし、社会的な制裁を受ける可能性もあるものである。一方はセックスを軸としたビジネスのルールに、一方は家族を構成する道徳的なルールに反則を犯しているからである。時代が変わったとはいえ、現在でもこの類の行為をすれば、どんな悲惨な結末を迎えようとも、人々から無視されやすいのが現実である。孤立して死ぬか、社会的には隔離され抹殺される境遇を生きるか、ちょっと間違えれば、その行く末はそんなところでもあろう。
 恋人のマルグリットが悲惨な死で人生を終えた後、アルマンはどのような最期を迎えただろうか、といった発想で稽古にとりかかったら、またしてもあのササヤキ声が聞こえてきたのである。この男は病院で死ぬしかない、ソレモ精神病院デダ。
 やはりこの人物も、私の舞台設定の妄想の観念世界、<世界は病院である>に生息することになってしまった。