BLOG

鈴木忠志見たり・聴いたり

2月7日 八百長

 「茶花女=椿姫」の舞台稽古が落ち着いてきたので、時々テレビを見る。カイロの騒動はどうなったのか興味があった。そしたら突然、外国のニュースのいくつかが、大相撲の八百長問題を放映していた。これが世界のニュースとして、取り上げられていることに驚いたが、こんなことは以前から問題にされてはいた。大相撲も次の春場所を中止にするとのことだが、この八百長の証拠が携帯電話のメールだということ、その文面の新時代文学言語とでも言うべき言い回しの他愛なさが笑える。
 八百長といえば日本はすべての事が、それで成り立ってきた国である。かつての自民党、社会党、公明党などの政治を思い出すまでもなく、政・官・業、それにジャーナリズムの癒着は八百長以外の何物でもなかった。改革を目指した現在の民主党にしてからが、表の顔とは違って、自分に都合が悪ければ、裏で積極的に手を染めていることである。
 私の業界、演劇界などもその最たるもので、朝日新聞や読売新聞の演劇賞受賞者と選考委員のメンバーを過去から調べてみれば一目瞭然、文化庁や新国立劇場をも巻き込み、すさまじいものである。この演劇八百長を取り仕切ってきた手配師が、小田島雄志、扇田昭彦、大笹吉雄、西堂行人などのジャーナリストと評論家、そのお蔭で井上ひさし、蜷川幸雄が横綱を張りつづけ、野田秀樹が大関、坂手洋二が前頭の筆頭などを維持してこれたのである。それは、今年の読売新聞の演劇賞が期せずして表明している。ここに列記したメンバーが相も変わらず、ずらりと顔を揃えている。
 朝日新聞はさすがに経営不振のためか、この工作のメリットに疑問を感じたためか演劇賞を廃止し、いじましい日本の演劇業界への八百長工作からは一歩ひいた形だが、演劇関係の記事に関しては相変わらずであることには変わりはない。ただ大相撲の八百長とちがって、演劇界のそれは金銭ではなく、業界を取り仕切りたいという手配師たちの権力欲と公私混同体質の臭気がして、日本的伝統としての八百長ののどかさがない。民主党の八百長工作と同じで、ある種のいじましい姑息さを感じざるをえない。
 私は今の日本の社会制度の中で、八百長は完全に無くなるはずはないと思っている。というより、これを日本で完全に無くすためには、思い切った制度改革が先だと思う人間である。今度の相撲界のそれは、その八百長の中心的な人物たちを見ると、ほとんど建設業界の談合と同じである。談合こそ日本の伝統文化、ワークシェアリングという経済的な相互扶助の優れた形態だとまでは言うつもりはないが、ただ精神的な個人倫理の面だけで否定すべきものではない。相撲界の八百長もそんな程度のものだったと朗らかに謝って、公益法人申請を取り下げ、国技などと思い上がったことを言わないことにしたらどうだろう。はっきりと私利私欲の利潤追求の経済団体だということを自ら認めるべきであるし、世間もそう見なすべきである。いまさらこの日本社会で、キレイゴトを言う必要はない。
 モンゴル出身の朝青龍が引退するとき、その理由に横綱の品格や品位に欠けるなどと馬鹿なことを主張する識者は多かった。バブル経済を経過して以後、日本社会のどこにそんなものがあったというのか。こんな言葉を使って他人を非難することができる日本人こそ、ペテン師か精神の八百長を実行している人に違いないのである。