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鈴木忠志見たり・聴いたり

3月18日 大佐の命運

 カダフィ大佐のようだったそうですね。ツイッターに出てました、劇団員が言う。誰だ、そんな馬鹿なことを言うのは。コピーを見せられたら確かに書いてある。車に座って傘を差し、演説しているカダフィ大佐を見たら、恥ずかしくて笑えたそうな。そして私の昔の舞台を思い出したのだそうな。そういえば昔は役者によく傘を持たせた。
 第一回の世界演劇祭「利賀フェスティバル」に参加してくれた寺山修司の劇団「天井棧敷」の関係者らしい。文の終わりの方にはこともあろうに、私は利賀村で鈴木忠志の独裁者ぶりを目の当たりにしたとある。懐かしい、私も笑える。30年も前のことである。同じ頃、小説家の島田雅彦も利賀村での私のことを、コッポラ監督の映画「地獄の黙示録」のカーツ大佐のような男だとか何かに書いていた。この時も苦笑したが、なんだかカダフィ大佐やカーツ大佐に申し訳ない感じである。あんなに役者っぽく、劇的に生きているわけではない。最近は<マルクナッタ>と言われていることを、この人たちに知らせてやりたい!
 利賀村の地の霊が誘う妄想力もすごい。しかしなぜ、この男たちは二人とも大佐なのか、なんだか私は気に入らない。元帥や大将ならいざしらず、鈴木大佐ではイヤだ。この漢字が四つも並ぶとサマにならない。まるで補給係のようだ。
 ところで日本の首相、一部の週刊誌ではやはり、独裁者などとも揶揄されているカン大佐はどうだろう。攻撃力と破壊力に特性を発揮した、民兵出身の大佐である。王政を倒したカダフィ大佐と同じで、自民党王国を打倒した軍団の指導者の一人である。しかし、攻撃や破壊を得意とする人は、概して守勢の局面に弱い。責任は追及できても、責任を背負い切る訓練と能力に欠ける傾向がある。
 今の日本はあらゆる局面、政治、経済、外交などで国際社会から攻撃をかけられ、守勢を迫られている。おまけに、自然にまで激しく攻めたてられている。日本は縮むのか沈没するのか。敵の攻撃をかわしながら、自軍の損害を最小限にして一度は撤退し、再び態勢を立て直し反撃に出る、これが見事に出来れば名将軍である。
 最近のカダフィ大佐は、一時期の守勢を撥ね返しつつあるとの報道もある。しかしいずれは、撤退か敗走の運命は免れない趨勢ではあるだろう。我らのカン大佐とその軍団の命運も定かではないが、ともかく今の局面では大佐とその軍団に、敵の攻撃を上手にかわし、再び反撃に移るための態勢立て直しの作戦を、いち早く立案・実行してくれることを願うしかない。一刻も早く、東北の前線で悲惨な戦いをしている同胞に、申し訳が立つような作戦行動に出てもらいたいものである。国際社会もその力量を、固唾を呑むように注視しているだろう。
 さて、私の劇団は現在どのような局面にあるのか。勝利か敗北による撤退か、それとも全滅か、ツイッターの一文を検索し、わざわざプリントアウトまでして届けてくれた劇団員に、その情勢分析を聞いてみよう。