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鈴木忠志見たり・聴いたり

3月30日 ゲリラ戦

 4月も間近だというのに、明け方の気温は、連日の零下である。池の表面は今朝も凍っている。被災地からの報道には、通称ダルマと呼んでいる灯油を燃やす暖房器具が映し出されていた。私はこれを30年来も愛用している。火力が強く、寒いときには欠かせない。しかも移動性が高い。しかし、被災地のそれには火がついていない。水道、電気、ガス、ガソリン、それに灯油までもと思うと、その苦難はいかばかりか。残されているのは殆ど動物性エネルギーだけ。
 私が東京を離れ、利賀村へ来たのは1976年、日本が経済的な繁栄を謳歌する直前である。また、日本社会の一極集中の始まりの時期でもある。その頃から現在までに、東京の人口は100万人以上も増えている。秩序形成のために非動物性エネルギーを大量に使用せざるをえない都市社会の突出である。
 当時の総理大臣は三木武夫、ロッキード事件で田中角栄前首相が逮捕され、世の中は騒然としていた。演劇界の長老から、日本を揺るがす大事件が起きているのに、山に籠もって演劇活動に専心したいなどという若者が輩出したのは嘆かわしい、と書かれたのを思い出す。別の長老からは、地方に城を築き、籠もって戦おうなどとはずるい、とも言われた。これらの人たちは西洋生まれの政治思想や芸術観に共鳴する演劇人である。昭和時代の一時期、日本の現代演劇の主流を形成した、新劇界の人たちということになろうか。西洋の演劇を日本にも根付かせたいと努力した人たちである。私もその恩恵にあずかったことは確かで、その成果を一概に否定するものではないが、しかし、この言われ方は気に入らなかった。
 あなたたちとは戦い方がちがう。籠城とは片腹痛い。西洋からの借り物を使って、日本社会の後進性を正そうなどとは卑怯千万、その戦い方は無効だ、と開き直ったのを覚えている。西洋から借りたものが、良いか悪いか検討するのが必要なのだ、一度は借りた以上、丁寧に扱わねばなるまいが、不良品だと思ったら熨斗(のし)をつけて返すべきだ、これが私の当時の言い分で、いささか生意気であった。
 果たして当時の日本に、お返しとして進物に価するものがあったかどうかは、私自身も疑わしいとは思っていたのだが、そんなことはどうでもよい、敵は足元にこそ居るぞ、そんな気分になった。素手でもよい、ともかく独力で精神と身体を鍛え、それを武器としてででも戦う以外にはない、その前提に立ち返って何ができるか考える、私の利賀村行きはこれ以上でも以下でもなく、別の言い方をすれば、動物性エネルギーの価値への再検証を試みようとしたものである。演劇の基礎は、俳優の演技を軸にした動物性エネルギーへの信頼にある。
 だから、これは戦いの放棄でも籠城でもない、ゲリラ戦の戦略・戦術の立て直しというのが私の正直な実感に近く、そのために東京を離れるので、むしろ、非動物性エネルギー依存社会のシンボルである東京の否定面と戦うための再武装だと考えていたからの反撥であった。世界は日本だけではない、日本は東京だけではない、この利賀村で世界に出会う、これが劇団の当時のキャッチフレーズ、ややハッタリの趣もあるが、この意気込みで35年間も利賀村に拠点を構え続けられたのは良かったと思える。
 日本にはまた、大災害があるだろう。それまでに政治も行政も精神文化も、新しい展望のもとに今よりも力強く立ち直っているのかどうか。東京から発信される混乱した情報の乱舞に接していると、暗澹とするばかりだが、その成り行きは見てみたい気がする。