BLOG

鈴木忠志見たり・聴いたり

5月4日 利賀山房開場

 あなたには二つの顔がある、と言われて喜ぶ人は少ない。二つの顔という言い方には二重人格、あるいは詐欺師や嘘つきの意味が含まれるからである。アイツハ、フタツノ<カオ>ヲモッテイルカラナ。だから現代人は、自分のも他人のも、顔はいつも一つの見え方として存在して欲しいらしい。しかし歴史的には、実際の人間の顔が一つに見え出したのはごく最近、電気照明が多用され、夜が明るくなったからである。人間は長いこと二つの顔をもち、それを見たり見られたりしてきた。端的に言えば、昼と夜の二つの違う顔があったのである。それこそがむしろ、通常の人間の姿であった。
 利賀山房の開場記念公演は1976年8月28日である。現在は劇団員の宿舎兼楽屋として使われている合掌造りで行われた。百瀬川の方から眺めると、当時はまだ建設されてはいないが、野外劇場の後ろに聳えている建物である。その内部を劇団員が手作りで即席の劇場に改造した。4本の大黒柱によって囲われている部屋、囲炉裏の切ってある広間をそのままにして、その周囲の部屋の床を下げ観客席にすると、能舞台と同じ構造になる。ただこの時は、現在の利賀山房とは異なり、橋懸りだけは逆にならざるをえなかった。林立する柱は焚き火の煤で黒くなったまま、屋根裏は古い茅葺きでところどころ藁が垂れ下がっている、トイレは汲み取り式の和風便所、場内はかすかに糞尿の匂いが立ち込めるといったもので、劇場とはいうものの、山里の廃屋以外のなにものでもなかった。そこで利賀村の獅子舞、観世寿夫の能「経政」、私の演出構成作品「宴の夜」が次々に演じられた。
 今思うと、一期一会の夜であった。昭和の世阿弥と言われた今は亡き観世さんが駆けつけてくれ、現代劇や民俗芸能の演じられる廃屋の同じ舞台で能を演じる。若い時代の勢いとでも言うべきか。終演後の観世さんの白足袋の裏は薄黒く汚れている。橋懸りが逆だったので動き方が反対のところがあり、いつもの能楽堂での演能よりずっと緊張したが、それがむしろ楽しかった、観世さんの感想である。
 この舞台は、太い柱と幅広の長押<なげし>に囲まれているので、舞台全体は均質の明るさにはならない。どこかを明るくすれば、かならず暗い影も強く発生する、これは日本家屋の特徴でもある。だから演能中の平家の公達の面は、光と影の狭間を旋回し、時には半面が明るいかと見れば、半面は真っ暗、それが漆黒の背景に浮かび上がったりする。こんなに気味の悪く恐い面を見たことは初めて、能の初源の一面に触れたように思ったと、私は観世さんに感想を述べた。一つの顔が、明るさと影を絶えず同在させ、間断なく表情を変化させていく、その不思議な迫力に息を呑んだ。能の主人公が死者であり、それが生きて闇の中に現れたということが、よく分かったのである。蛍光灯を多用した、ただ明るいだけの能楽堂などでは、決して出会うことのない光景であった。
 近代以前の日本人は、燭台や行灯の光と共に夜を過ごした。恐らく光源は一つの方向に在る。だから顔の半面は絶えず薄く暗いか、闇につつまれ易かったはずである。それは昼の明るさで見る朗らかな人間の顔とは、まったく異なったものに違いない。ましてや行灯と違って、燭台の光は揺れる。顔の表情も影と共に、絶えず揺れ動いただろう。
 人工衛星から観測された夜間の地球画像によると、北米大陸の都市部がもっとも明るく、ヨーロッパと日本の都市は次に位置するらしい。しかし地球全体を眺めると、北米やヨーロッパには暗い部分が広く残存しているのに、日本には暗い部分が少なく、国土全体が光り輝いているそうである。都市と道路の明るさが日本の国土を埋め尽くした。日本人は農地や山林を捨てただけではなく、夜の闇までも放逐したということであろう。それと同時に、日本人は感受性の奥行きまで失ったかもしれない。