BLOG

鈴木忠志見たり・聴いたり

5月13日 転回点

 予測や思い込みを、見事に裏切ってくれる人がいる。その裏切りは、おおむね失望で終わることが多いが、こちらの常識を打ち壊し、驚きを与え、自分の仕事への励ましという糧になる時もある。
 私が初めて自分の舞台を見せに外国へ行ったのは1972年のパリ、フランス政府主催の諸国民演劇祭に招待されてのことである。芸術監督は演出家で俳優のジャン=ルイ・バロー、映画「天井桟敷の人々」の名演技などでも世界的に知られた人である。学生反乱の世界への波及の発端となったといわれる1968年の5月革命の時には、国立劇場のオデオン座を学生に開放し、当時の文化大臣アンドレ・マルローに支配人の職を解任されている。
 私は当時32歳、世間が狭い、だから生意気、反社会的なことを口にはする、しかし反面は権威主義、といった典型的な青二才であった。フランス政府の招待? 世界各国から36劇団? 世界一流! 劇団員ともどもに盛り上がった。赤絨毯とシャンデリアのロビー、シャンゼリゼーの大劇場だ、とばかりに意気込んで行ってみて驚いた。
 劇場はつい先程まで人が住んでいた粗末な建物で、ただいま仕切りの壁を壊しました、どうぞご自由にお使いくださいといった感じ。ただ四角い箱状の空間である。真ん中には特設リングのような舞台が作られ、それを四方から囲んでいる客席は、こともあろうにベニヤの階段、オイ、バカニスルナ、なにが諸国民の演劇祭だ、文化国家フランスはどこへ行った、これでは日本に帰って自慢できないではないか、コノキモチヲ、ドウシテクレル! であった。バローに挨拶しようと、芸術監督の部屋に案内されてまた愕然。普通の住宅の、といってもそこはフランス、日本と違って煉瓦造り、風情はあるのだが、厨房が横にある食堂、そこに簡易ベッドといくつかの椅子が置いてあるだけの部屋、味も素っ気もない。バローはここで食事をし、寝泊まりもしていたのである。この人は本当にエライのか。
 実際に会ってみると、やはりこの人は偉かった。招待した劇団の芸術的な要望に、劇場を少しでも適応させようと、自らカナヅチやノコギリを持って飛び回っている。スタッフを指図し、気に入らないことがあると怒鳴り散らす、その夢中のなり方、エネルギーの出方が尋常ではない、過剰かつ異常である。私の思い込んでいたフランスとはだいぶ違う。過剰、通常、異常とあるが、演劇人には通常以外の2つが大切、通常の大通りだけは避けて通れ、これが若い頃の演劇活動のモットーだったが、それを生きているような人が目の前に出てきたのである。手作りの精神で劇場空間を設え、そこで自分の作品を創り発表し、世界から仲間の作品も招待し切磋琢磨する、それまでの私には、不可能としていた演劇人の在り方であった。
 この時に上演した「劇的なるものをめぐって」の舞台は、ヨーロッパの多くの演出家やプロデューサー、ピーター・ブルックやグロトフスキーなどが見た。そのために私の作品は、毎年のように世界の国から招待されるようになり、現在までに30カ国以上に及ぶ。私の演劇人生の転回点であった。
 富山県の過疎地、利賀村の廃屋でも劇場になるし、世界演劇祭も可能だという確信を与えられたのも、フランス人バローの裏切りのお蔭である。彼のその時の演劇祭の運営方針は、フランスの通常の劇場運営への果敢な批判だということは、しばらくしてから理解できたことである。フランスだけではなく、世界の演劇界の常識への挑戦でもあっただろう。この時の出会いが縁になって、彼もグロトフスキーもピーター・ブルックも、来日した折には稽古を見に来てくれたし、雑誌やテレビで対談もした。ジャン=ルイ・バローもグロトフスキーも今は亡いが、仕事を通して出会う友人というものの掛け替えのなさであった。